江戸時代、武家も庶民も、その移動には厳しい制限があったが、神仏への参詣には、幕府も規制したり禁止したりすることはなかった。そのため通行手形を持っていれば、どのような順路で旅をしていても咎められることはなかった。
それにしても伊勢参りは、庶民がその費用を捻出できないくらい高く、それは一生に一度の大旅行だった。
にもかかわらず多くの庶民がこのような大旅行ができたのは“伊勢講”と言う相互扶助の仕組みがあったからで、この講により参宮の費用を積み立て、伊勢参りを楽しんでいたのである。伊勢参りは、“講”によるところが大きかったのである。
伊勢参詣は、伊勢に至る道中にこそ旅の楽しみがあり、川柳にも“太神宮にも ちょっと寄り”とあるが、その“ちょっと”が伊勢参宮の全てを物語っている。なお旅は、道中の安全を考えて2~3名で行ったようである。
“講”による通常の伊勢参りとは別に、“抜け参り”と呼ばれるもう一つの伊勢参りもあった。
これは奉公人などが主人の許可なく勝手に職場を離れたり、子供が親の許可もとらず突発的に無断で家を“抜け出し”て、伊勢に参詣するものであるが、この抜け参りは、路銀も持たず沿道筋で施しを受けながらの旅であった。
そして抜け参りは、本来個人の宗教心からの、そして統制された日常からの逃避、うっぷん晴らしの旅であったことから、民衆の共感もあり、そのため社会で黙認された風習だった。これは神仏への参詣を抑圧したり妨害したりすると神罰を受ける、罰が当たるとの考えがあったからである。
このように抜け参りは、無許可の参宮であったが、伊勢に参詣してきた証拠のお守りやお札を持ち帰ればお咎めもなく、逆に人生経験を積んだ一人前の大人として地域社会で迎えられたようである。
抜けるにも 抜けぬにも 伊勢縁があり(誹風柳多留)
抜け参り 人の情けを 汲んで行く (誹風柳多留)
このように江戸時代、伊勢参りには、通常の参詣と、この抜け参りの二つがあった。
なお明治以降は、この抜け参りの風習もなくなったが、それに代わり伊勢参宮は国家的意向をもった、そして学習という名のもとに組織的に国家権力が介入する修学旅行へと変貌していったのである。
(筆者注)
(上)伊勢燈籠(御所の辻)
(下)伊勢燈籠(大日寺跡)
R2・6・25 横山 豊