平成27年(2015)、文化庁は、地域の歴史的魅力や特徴を通じて日本の文化、伝統を語るストーリーを日本遺産(Japan Heritage)として認定した。
これは、地域に根ざし世代を超えて受け継がれてきた有形・無形の文化財を域外に発信することによって地域を活性化させることを目的としたものである。
ちなみに世界遺産は、「遺産を保護」することを目的としたUNESCOの活動であるが、日本遺産は「遺産を活用」することにより地域の魅力を知ってもらうことを目的とした文化庁の活動である。
日本遺産には、単一の市町村でストーリーが完結する「地域型」と、複数の市町村に跨る「シリアル型(複数自治体横断型)」があるが、令和2年(‘20)6月、河内長野市や奈良県宇陀市、和歌山県高野町、と九度山町の2市2町による「女性とともに今に息づく女人高野~時を超え、時に合わせて見守り続ける癒しの聖地~ 」が「シリアル型」の日本遺産として認定された。
《 女人高野 》
高野山真言宗の総本山金剛峰寺は、開創時から明治5年(1872)まで女人結界を定め、女性の参詣を禁じていた。しかしそのような時代であっても女性たちの入山を受け入れ、女性の祈りを聴いた寺院があった。これが“女人高野”と呼ばれる寺院である。
《 日本遺産・女人高野の構成文化財 》
寺院: 天野山金剛寺(金剛寺境内、建造物群、彫刻群、鎮守、子院群)
(河内長野市)
室生寺(むろうじ)(室生寺境内、建造物群、彫刻群)
佛(ぶつ)隆寺(りゅうじ)、大野寺(おおのでら)、安産寺(あんざんじ)
(宇陀市)
慈尊院(じそんいん)(慈尊院境内、建物群、彫刻群)(九度山町)
不動(ふどう)坂口(さかくち)女人堂(にょにんどう)、お竹地蔵尊、
子継(こつぎ)地蔵(粉撞(こつぎ)地蔵) (高野町)
神社: 丹生官省符(にうかんしょうふ)神社(九度山町)
河湊: 船戸河湊(ふなとかわみなと)跡(あと) (九度山町)
街道: 天野街道(河内長野市)、高野街道(河内長野市・九度山町・高野町)
槇(まき)尾道(おみち)(河内長野市・九度山町・高野町)、
町(ちょう)石(いし)道(みち)(九度山町・高野町)、
女(にょ)人道(にんみち)(高野町)
祭礼: 正御影供(しょうみえく)(河内長野市、宇陀市)
《 天野山金剛寺 》
天野山金剛寺は、真言宗御室派の寺院で、その創建は古く奈良時代に僧行基(ぎょうき)によって開創され、のち弘法大師空海が修行したと伝えられている。 その後、寺院は荒廃していたが、承安(じょうあん)年間(1171~75)、高野山で修行していた阿観(あかん)上人が後白河法皇の命により再興した。そして阿観は、後白河法皇と皇妹八条女院の帰依を受け御影供も始めた。
そして治承(じしょう)元年~4年(1177~80)頃、八条女院の祈願所になったことから女性の参拝も許され、さらにこの女院に仕える女房たちも阿観に帰依した。
そのため、初代の院主(いんず)・聖地房(せいちぼう)阿観(あかん)のあと、淨覚(じょうかく)、覚阿(かくあ)、淨阿(じょうあ)、さらに悟入(ごにゅう)と4代にわたり女院の女房たちが院主を継いでいったことから、当寺は“女人高野”と呼ばれるようになったと考える。
南北朝時代の正平(しょうへい)9年(1354)、南朝の後村上天皇の行在所(あんざいしょ)となったが、この時食堂を政庁“天野殿(あまのでん)”として6年間、ここで政務が執られた。そのため当寺は“天野行宮(あまのあんぐう)”と称されている。
また北朝の三上皇も3年間、当寺を御座所(ござしょ)としたことから、当寺は南北両朝の行在所(あんざいしょ)になっていた。
そして室町時代になると、僧坊酒“天野酒”は多くの武将に愛飲され、その名声は関東にまで響いていた。特に秀吉はこの酒を好み「酒に真心を入れるように」との朱印状を発行している。
当寺は、多くの戦乱の中でも寺領は安堵され、またキリシタン信徒による破壊活動を受けることもなく、さらに明治の廃仏毀釈の混乱にもかかわらず多くの文化財が残されてきた。
《 河内名所圖會》
江戸後期に刊行された『河内名所圖會』(享和元年(1801)刊行)や『西国三十三所名所圖會』(嘉永6年(1853)刊行)には、
建保3年7月、嘉陽門院(かようもんいん)、故八条女院の芳信(ほうしん)を感じ、旧風を継いで女人の高野と称号したまふ とあり、“女人高野”の記述がみられる。
しかし女性の参詣は、中興当時の院主(いんず)たちが八条女院の女房であったことから推して、早くから許されていたと考えられる。なお金剛寺が“女人高野”と呼ばれるようになったのは、西国三十三所巡礼や伊勢などの神仏への参詣が盛んになる江戸期以降になってからと推察される。
(筆者注) 建保(けんぽう)3年(1215)、
嘉陽門院(かようもんいん):後鳥羽天皇の第三皇女、
《 金剛寺の魅力 》
和泉道が金剛寺の境内を貫いているが、門前町が形成されることもなく、今もなお静寂、清楚さ、そして上品な佇まいが醸し出され魅力にあふれている。
※ 女人高野 ⇒ 女性も大師と縁を結ぶ霊場
※ 天野行宮 ⇒ 南北朝時代、南朝の都
※ 天野酒 ⇒ 僧坊酒(天下の銘酒)
※ 正御影供 ⇒ 弘法大師の法要
※ 城郭寺院 ⇒ 城郭の構え 桝形門(日野口門・和泉門・総門)・
土塁(総門前)
※ 縁の人が多彩 ⇒ 天皇・女院(聖武天皇・後白河法皇・八条女院・
後村上天皇)
僧侶(行基・空海・阿観・禅恵)
武将(楠木正成・豊臣秀吉・秀頼・徳川綱吉)
※ 文化財 ⇒ 国宝・重文・府指定・登録有形文化財など多数
※ 日本遺産 ⇒ 中世に出逢えるまち(令和元年 認定)
女性とともに今に息づく女人高野(令和2年 認定)
《 女人高野・金剛寺の構成文化財 》
建造物群:金堂、多宝塔、楼門、食堂、薬師堂、五仏堂、御影堂、観月亭、
求聞持堂、開山堂など
彫刻群 :大日如来坐像、降三世明王坐像、不動明王坐像、
楼門二天像(増長天・持国天)など
子 院 :摩尼院(南朝行在所)、旧観蔵院(北朝行在所・奥殿)、旧中院、
吉祥院、旧無量寿院など
鎮 守 :丹生・高野明神社、水分明神社
祭 礼 :正御影供
《 正御影供(しょうみえく》
承安(じょうあん)2年(1172)、高野山より真如(しんにょ)(高岳(たかおか)親王)の筆になる“弘法大師御影”を奉安し“御影供”が始められ、以来約850年間続く、当寺最大の祭礼である。
なお当寺では、4月21日の正御影供の法要の時、百味飲食(ひゃくみおんじき)と呼ばれる供物が捧げられている。
《 金剛寺鎮守(ちんじゅ) 丹生(にう)・高野明神社(こうやみょうじんしゃ) 》 寺伝によると、金剛寺を再興した阿観上人は、承安2年(1172)、高野山の丹生(にう)明神、高野(こうや)明神を当地に勧請し、当地の守り神・水分(みくまり)明神と共に祀って当寺の鎮守としたとのことである。 社殿の構造は、丹生・高野明神社は三間社流造、檜皮葺き、千鳥・唐破風付き。水分明神社は、一間春日造。棟札によると、現在の社殿はいずれも慶長11年(1606)、豊臣秀頼により再建されたものである。
(筆者注)
(上)金剛寺 境内
(中)丹生・高野明神社
(下・上)金剛寺 観月亭『河内名所図会』
(下・下)水分明神社
R2・6・28 横山 豊