石碑(せきひ)には、和歌や短歌の歌詞を刻んだものが多いが、童謡や唱歌の、あるいは歌謡曲の歌碑(かひ)もある。河内長野ではそのような歌碑はないし、俳句を詠んだ句碑(くひ)や詩碑(しひ)も建てられていないが、興味深い歌碑がある。
大阪府営の長野公園は、河内長野市内の5地区に点在しているが、その内でも河内長野駅の東側の石川を渡ったすぐ上の長野山が“奥河内さくら公園”である。
ここは展望も良く、春のサクラ、初夏のツツジ、さらに紫陽花や夏のホタル、そして秋のモミジなど、四季を通じて花が楽しめる所である。
この公園は、高野登山鉄道が諸越長者の屋敷跡と伝わる高台(現・奥河内さくら公園)に遊園地を設けたのが始まりで、明治41年(1908)5月21日に開園した。遊園地には桜や紅葉が植えられ、遊具も整備、そして麓の長野温泉街は、多くの行楽客で賑わっていた。
そして大正4年(1915)、回廊が設けられ石川・天見川の合流地の行者岩には弁天堂も建てられ、さらに大正7年(1818)には、住吉駅駅舎を移築し公会堂も建てられたようである。
明治44年発行の『高野登山鉄道沿線遊覧案内』には、諸越橋や箸塚、そして行者岩や黄金塚など開設当初の遊園地が描かれている。
高野登山鉄道は、大正4年に大阪高野鉄道に、そして大正11年には南海鉄道と合併し、遊園地も南海の経営となったが、昭和25年に大阪府に委譲され、翌26年には、府営の公園として開園した。
平成20年(2008)は、この公園が長野遊園地として開園してから100周年であった。
この公園に歌碑が立っている。
長野山 植えたる若木 栄えなば よし野龍田も ここに見られむ
吉野はサクラ、龍田はモミジの名所であるが、長野遊園地を開設するにあたりサクラやモミジが10万本植えられた。和歌には、これらが大きく成長し繁栄していけば吉野竜田に行かなくても、ここで花見も紅葉狩りもできるようになるとの思いが込められている。
ちなみに筆者は毎年、回廊のそばで仲間たちと花見をし、また初夏には紫陽花も楽しんでいる。
また三日市町駅前から観心寺に向けて坂を登って行くと、登り切ったところに笠松稲荷がある。
伝承では、弘法大師が当地に7本の松の木を植え“寺元の七本松”と親しまれていたが、だんだんと枯れていき最後に一本だけ残っていた。その松は笠を広げたような枝振りで、根元には稲荷が祀られていたことからここは“笠松稲荷”と呼ばれるようになったと伝えられている。
ここに河内長野で二つ目の歌碑がある。
笠松能(の) 見はらしも良き 涼しさに 枝を重ねし 笠松能(の)影
ところで昭和26年5月 柳原白蓮が三日市の油屋に宿泊、短歌の会を催しているが、その時“油屋旅館にて”と題して“油屋”そのものを詠っている。
錦なす 渓のながめを たたへつつ 温(ぬく)うき世 わすれの泉能(の) やどそこれ
一休庵 よろしきかなや 木の芽みて きかまくほしも 釜の松風
なお一休庵は、油屋旅館の茶室、“きかまくほしも”は聞かせてほしいものだの意、そして釜の松風は、お茶を点てるお湯が釜に湧く音を、松を渡る風に例えたものである。
また三日市宿で岩湧山を詠ったものもある。
岩湧は ながめよきやま 青々と むらたつ松の なかめよき山
かつらぎの 山なみとほく みゆるところ 岩湧やまを まともにむかふ
これらの短歌は未だ歌碑にもなっていないが、いずれは碑に刻み残していってもらいたいものである。
(筆者注)
(上)長野公園 古絵葉書
(中)歌碑(長野公園)
(下)歌碑(笠松稲荷)
R2・7・9 横山 豊