嘉永6年(1853)、暁鐘成(あかつきかねなり)が著した『西国三十三所名所圖會』巻之四に「三日市の駅」の記述がある。
右上田村に隣る。この地は京師(けいし)・浪花(ろうか)よりの高野街道に
して、旅舎(はたご)あまた有りて賑はし。されば野山(やさん)の僧徒
(そうと)、参詣の貴賎、諸商人の往還絶えず。かつ卯月(うづき)の上旬
(はじめ)よりして菊月の節句までは、大峯山上(おほみねさんじょう)
の高野まはり、宝螺(ほら)の音に出女(でをんな)の昼寝をさまし、泊まり
すすむる声々に色を含みし厚化粧には、護摩酢(ごまず)のすぎた新客は
行場(ぎょうば)の誓ひも打ち忘れて精進落とすもありぬべし
また、享和元年(1801)7月 秋里籬島(あきさとりとう)が著した『河内名所圖會』巻之一の「三日市駅」では、次のように記している。
京師・難波よりの高野街道なり。旅舎(たびや)多くありて、日の斜めなる頃より、出女(でをんな)の目さむるばかりに化粧(けはひ)して、河内島の着ものに忍ぶ染の拖欄(まへだれ)美(いつく)しく、往きかふ人の袖引き、袂(たもと)をとどめて、一夜の侍女となる事、むかしよりの風俗(ならわし)とかや
(筆者注)出女 :江戸時代の私娼の一種、飯盛り女、留女と同類。
護摩酢:酒のこと
『名所圖會』では“出女”の客引きの様子に多くの紙面が割かれているが、三日市宿は旅舎も多く、寺社への参詣者だけでなく商人の往来もあり、かなり賑わっていたようである。
なお旅籠屋には「平旅籠屋」と飯盛女を置いている「飯盛旅籠屋」があるが、『名所圖會』に描かれている「旅舎」は「飯盛旅籠屋」である。
三日市宿は、高野街道の宿場で、大坂より8里、堺より6里、紀見峠まで2里、そして高野山女人堂へ9里に位置する。
本来なら宿場は、西高野街道と西国三十三ヶ所の巡礼道が交差する原の辻あたりが適地と考えられ、それを裏付けるように元々の宿場は、原の辻より少し東に進んだ古野にあって繁栄していたとのことである。しかし16世紀中頃の大火で焼失してしまい、宿場は三日市に移ったと伝えられている。
三日市は南に石見川が、そして西と北を天見川が流れ、さらに延命寺方面からの井路が宿場の東を巡っている。当宿はまさに周囲を水路、濠で囲まれた“環濠集落”なのである。
宿場が三日市に設けられているのは、このような地理的な好条件があったからと考えられ、当地が宿場になったのも当然のことと思われる。
三日市宿は、環濠集落であるが、城下町の構造がほかにも見られる。
まずフォレスト三日市の南東の角は、かって“当て曲げ”の構造になっていた。
当て曲げとは、四つ辻で道を真っ直ぐに交差させず、道をワザと少しズラスことによって見通しを利かなくしている辻のことで、この構造は、江戸時代の城下町では一般的に見られる防御施設である。
また宿場内の道は、直線の所は少なく、クネクネと曲がり、できるだけ見通しが利かないように設けられている。
さらに天見川を北に渡った上田宿の松屋坂(煎餅坂)では、“桝形”が形成されている。
桝形とは、直線で進撃してきた勢力を直角に曲げることによって、その勢力の低減を図るためのもので城郭の虎口では一番発達した防御構造のものである。
このように三日市宿は、環濠集落で、しかも当て曲げや桝形、さらに曲線の道など城下町そのものの構造が見られる。ここ三日市は“宿場”というよりも、三日市の“城下”と呼んだ方が良いのかもしれない。
なお三日市宿は、上田村と三日市村で成り立っているが、最盛期には南の石仏村まで旅籠が並び三日市宿の一部を構成していたようである。そのためその地は“新町”と呼ばれている。
このように三日市宿は、多くの旅人で賑わっていたが、“錦座”という芝居小屋もあり、旅人を楽しませていたようである。
ところで南海電鉄の三日市の駅名であるが、現在「三日市町」となっている。 しかし過ってここが宿場であったことを考えると駅名はやはり「三日市宿」としたい。こうい呼称を付けることによって、来訪者も過って当地が宿場であったとの認識ができるのではないだろうか。
ちなみに三重県伊賀市を走る伊賀鉄道は、伊賀線を”忍者線”に、そして上野市駅を”忍者市駅”という愛称に変更している。伊賀市は、これによって観光客の誘致に活用するためであるが、河内長野でもこのような愛称を掲げ集客に活用できないものであろうか。その手始めが”三日市宿駅”への愛称変更であるが・・・。
明治31年(1898)、高野登山鉄道(現・南海電鉄 高野線)が堺の大小路から長野まで開通、そして大正3年(1914)には三日市まで、さらに昭和5年(1930)には、高野山まで開通し、三日市は宿場としての役割を終えていった。
(筆者注)
(上)三日市の駅『西国三十三所名所圖會』
(中)三日市宿場図
(下・左)八木邸
(下・右)奥山邸
R2・7・20 横山 豊