観心寺に恩賜講堂(おんし こうどう)がある。
この講堂は、昭和3年(1928)、京都御所で行われた昭和天皇即位の大礼の時の饗宴場(きょうえんじょう)の建物であるが、当初より再利用できるように仮設建物として作られていた。
そしてこの建物は、観心寺中院に本部をおく大日本楠公会に下賜され、講堂として建設されたが、観心寺境内は単なる移築場所,あるいは楠公会に場所の提供をしたに過ぎない。
ちなみに下賜される条件は、皇室などとの関係の深さを申請者が示し、裁可を受けて決められたようであるが、南河内の楠公顕彰団体の内、4団体が観心寺にその本部を置いていたことも幸いしたと考えられる。
なお饗宴場の建物は、大日本楠公会だけでなく、橿原神宮や関西大学(千里山)、あるいは同志社にも下賜されたが、その後解体されたり、再移築されたりして、当時のまま現存しているのは当寺のものと関西大学・威徳館が再移築された千里寺本堂だけである。
饗宴は、昭和3年11月16日・17日の両日に開催された。そして饗宴場は解体され、その資材は昭和4年9月13日、京都を出発、同月16日、南海電鉄・長野駅に到着している。
このように資材は、京都から長野駅までは列車を利用、その後、駅から観心寺までは牛車に載せ地元の有志により人力で運ばれた。
そして同4年の11月に起工、翌5年(1930)3月30日上棟、同年5月25日・楠公戦死日に竣工・開堂式が行われている。そして昭和6年5月26日、大日本楠公会は「楠公六百年忌大法要」を執り行っている。
講堂の建物は、桁行6間(正面・幅21.85m)、梁行7間(奥行・24.688m)、軒裄の高さ約9mの入母屋造り、スレート葺きの木造平屋建てで、延べ面積は、167.6坪(544.06㎡)である。
柱は、正面外側は、粽(ちまき)がある寄木造りの丸柱で、芯材の外側を樽を作る要領で巻き一本の柱に見えるように作っている。また礎石は正面側だけを花崗岩製にして見栄え良くしていて正面を重視したことがうかがえる。
建物内部は、5間×6間で柱はなく、天井裏で多くの三角形が組んであると考えられる。そして床は、板張り、天井までの高さは、約6.5mで、二重折上格天井(おりあげ ごうてんじょう)にシャンデリア3基吊り下げられ、装飾的建具や有職模様の壁紙で飾られ豪華さを醸し出している。なお菊水模様の釘隠しは、当地に移築されてから新たに取り付けられたものと考えられる。
饗宴場の資材を再利用した建物はほとんど残っておらず、この建物は、近代の宮殿建築を知るうえで貴重な建築物で後世に残していかなければならない文化遺産である。このことにより平成29年(2017)、当講堂は、国の重要文化財に指定された。
(筆者注)
(上)恩賜講堂 正面
(中・上)屋根の構造体と牛車(古写真)
(中・下)花崗岩製礎石と寄木造りの丸柱
(下)講堂天井とシャンデリア
R2・8・13 横山 豊