我が河内長野は、どのような観光資源があるのだろうか。
まず第一は、令和元年に当市単独で認定された日本遺産「中世に出逢えるまち」が、そして令和2年には「女性とともに今に息づく女人高野」と「葛城修験~里人とともに守り伝える修験道はじまりの地~」の二つが日本遺産に認定されている。
なおこの女人高野は、河内長野市と奈良県の宇陀市、和歌山県高野町と九度山町の2市2町が共に、そして葛城修験は、6市2町1村の自治体が共同で認定されたもので、これらは、“新しい地域ブランド”と言えるであろう。
そしてこの日本遺産こそ、文化庁に“公に認められ”“箔が付いた”観光資源と言えそうである。
ところで古都鎌倉とか、古都金沢などのようにズバリ“古都”と呼ばれるところもあるが、古都とは、かって都が置かれていた所、あるいは歴史的な景観が残るところと考えられている。
古都とは、「京都市、奈良市、鎌倉市及び政令で定めるその他の市町村」と法律でその定義が定められているが、この政令で定めるその他の市町村には「天理市、橿原市、桜井市、斑鳩町、明日香村、逗子市及び大津市」が規定されている。
この定義によると古都とは、“都が置かれた所”だけでなく、武家の都・鎌倉も古都として考えられている。
そうすると270年もの長きに渡る武家の都・江戸が入っていないのは、なぜであろうか。疑問が残る。さらに難波宮や難波長柄豊崎宮が置かれた大阪市が入っていない。大阪市は古代“都”であっただけでなく戦国時代には「安土・大坂時代」か、と言われるような重要な都市であった。武家の都・鎌倉が古都として認められているのに、なぜ大阪や江戸が認められていないのであろうか。納得がいかない。
ここで規定されている市町村をみてみると、明日香村は、古代に板葺宮や川原宮、あるいは岡本宮や飛鳥浄御原宮が置かれていたので古都と言える。さらに藤原京の橿原市や近江京の大津市も。そしてまた桜井市や天理市、斑鳩町は、国宝や重文も多くまだまだ理解できるが、逗子市に至っては全く理解できない。不可解。同市が“往時の政治、文化の中心として歴史上重要な地位を有する”とも考えられず、古都の定義を疑ってしまう。
古都とは、“都が置かれた”、あるいは“文化の中心”であったはずだが、これでは基準そのものが何だったのか。
それでは本当に“古都”は、どこか。
まず古都として考えられるところは、京都市、奈良市、鎌倉市、天理市、橿原市、桜井市、斑鳩町、明日香村、大津市の9市町村と、大阪市、木津市(恭仁京)、甲賀市(紫香楽宮)、向日市・長岡市(長岡京)、神戸市(福原京)の6市であろうか。
ここで忘れてはならないのが、“行宮(あんぐう)”である。
天皇の常住の宮が平城宮や平安宮であるのに対して、行宮とは、旅先に設けた仮宮のことである。
古都とは“天皇が都したところ”と考えると、南北朝期、後醍醐天皇(96代)、後村上(97代)、長慶(98代)の三天皇は、京都(平安京)を都とせず、吉野行宮(後醍醐・長慶)、賀名生(あのう)行宮(後醍醐・後村上・長慶)や天野行宮(後村上)、住吉行宮(後村上)の4っを都とした。
さらに筆者は、“檜尾行宮(ひのお あんぐう)”も追加したい。
檜尾とは、観心寺の山号であるが、正平14年(1319)、後村上は金剛寺より観心寺に遷幸、惣持院を行宮と定め10ヶ月間、政務を執っている。なお檜尾行宮とは、筆者が勝手に付けた名称であるが・・・。
南北朝時代。公式な天皇(96代~98代)が都したところが日本の都であり、都した期間が問われるものではない。また北朝の天皇5代が即位したことになっているが、正史では天皇ではなく、“北朝第〇代“との表現になっている。
このように考えると、河内長野市は、かって日本の都であったし、古都と呼ぶべきとも考える。
そこで観光客誘致のため“日本遺産サミット”や“古都サミット”、あるいは“行宮サミット”が開けないものであろうか。
仮に“古都サミット”を開くのであれば、上記の15市町村に5つの行宮が置かれたところも加えたいものである。しかしもっとコジンマリと開催するのであれば4市町村だけの“行宮サミット”も良いかも知れない。いかがであろうか。
要は、日本遺産や古都、あるいは行宮などの観光資源を保有する市町村が連携して観光客誘致の知恵を出し合っていくことが重要と考える。
ところでもし南北朝時代に私がここにおれば、当然のことながら、私は“都びと”と呼ばれていたに違いない。今はただの“河内のおっさん”であるが・・・。
(筆者注)
(上)金剛寺食堂(天野殿)
(中)賀名生皇居(堀家住宅)
(下・左)住吉行宮・跡
(下・右)吉野行宮(古絵葉書)
R2・8・28 横山 豊