昨日、四天王寺へ日想観(じっそうかん)という修行を見に行った。
遥か西方の彼方にあると信じられている極楽浄土へ行くにはどうすればよいのか。
西に沈む太陽を見つめその形を心に留める、極楽浄土の情景を思い描く。その修行が日想観である。
春と秋の彼岸の中日、夕日は四天王寺の西門の間、鳥居の真ん中に沈んでいく。ここは古来より夕日を眺める絶好の場所だった。
四天王寺の西の鳥居には、“釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心”と記された扁額(へんがく)が掲げられているが、ここが“極楽の東門”という意味である。
四天王寺の西門は、極楽浄土の東門と向き合っていると信じられ、そのためこの門は極楽門とも呼ばれ、平安中期以降、西門のかなたに沈んでいく太陽を観ずる場所であった。
空海もここで日想観を修したと言われ、11世紀頃にはその信仰は広く行き渡っていたようである。
僧侶が表白文(ひょうはくぶん)や発願文(ほつがんぶん)などを読み上げ、参拝者も唱和しながら西に沈んでいく夕日を眺める。これが日想観である。
なおこの日想観は長らく途絶えていたが、平成13年(2001)の秋に再開されたとのことである。
ところで難波(大阪)の枕詞は“押し照る”という。
“押し照る”とは、日の光が海と空を明るく照らし輝くさまの意で、万葉集に次の歌が出てくる。
直越の この道にして おしてるや 難波の海と 名づけけらしも
大和国から河内国につながる山道・直越の道(ただごえのみち)を歩いて行くと、明るく光り輝く海が見えた。これが“押し照る”と名付けられた難波の海か、と。
大阪の西は海が広がり太陽が沈む“夕陽の国”。そのため上町台地は昔から夕陽丘と呼ばれ、中世には、難波津から沈み行く夕陽を目指して補陀落(ふだらく)渡海を試みる人たちもたくさんいたようである。
四天王寺で行われる日想観は、西方浄土へのあこがれだけでなく太陽崇拝とも結びついた信仰と考えられる。
ところでお寺には、山号と寺号がある。
高野山金剛峯寺は、高野山が山号で、寺号は金剛峯寺、また檜尾山観心寺は、山号が檜尾山(ひのおさん)で寺号は観心寺。
このように山号には寺院が建つ地の名称が付けられているが、薬樹山延命寺のように寺院の周辺に薬樹が多いことに因んで付けられた山号もある。
與通(よつ)の盛松寺(せいしょうじ)は、“大師山”に立地しているが、山号は“仏日山(ぶつにちさん)”である。
仏日(ぶつにち)とは、仏の光・光明が衆生(しゅじょう)の無知の闇を照らすことを太陽にたとえていう言葉らしい。
金剛山の頂上から太陽が昇ってくる。河内長野の日の出、夜明けである。すると暗黒の世界が徐々に白み薄ぼんやりと明けてくる。そして衆生の闇を照らす太陽の光は、大師山に注がれ、そしてその後、この盛松寺の建つ大師山から暗黒の無知の世界を照らしていく。この時、大師山は、仏日山に変わっていくのである。
一般的に寺社が建つ地は、もともと聖なる地で、何らかの重要な意味があって選らばれた地と考えられる。金剛山の頂きより、この盛松寺の建つ大師山や本堂に日の光が差すのは、ここが特別な場所であることを示している。
そのため、ここに盛松寺が建てられ、山号も“仏日山”と名付けられたのではない、と推察する。
四天王寺の日想観は沈みゆく太陽への信仰。そしてその向こうにあると信じられる西方浄土への信仰である。
しかしこの仏日は登りくる太陽へのあこがれである。日の光が闇を破り光輝く世の中が現れる希望の光。これを願う信仰が仏日かもしれない。
数年前、筆者は仏の光明が衆生の無知、そして我々の心の無知の闇を照らし、光輝く世界へと導いてくれることを願って、まだ夜が明けぬ内から大師山に登り、金剛山の頂上から太陽が昇ってくるのを待った。この時、白みゆく世界に浸っていると何か聖なる時を過ごしているような気がした。
(筆者注)
(上)四天王寺 日想観
(中)仏日山盛松寺 本堂
(下)金剛山 日の出
R2・9・23 横山 豊