第四話は、「畠山氏のお家騒動と烏帽子形城を巡る攻防」である。
大永4年(1524)畠山稙長(はたけやまたねなが)は金胎寺城に陣を置き、烏帽子形城に軍を進めた。そしてこの後の天正2年(1574)まで畠山氏と三好三人衆、さらに織田信長を交え当烏帽子形城を巡っての攻防が繰り替えされた。
そしてこのお家騒動の中で河内守護・畠山氏は滅亡してしまうのである。
第五話は、「キリシタン大名」の登場であろう。
当地を領する「三人の殿」の内、二人がキリシタン大名であった。この「二人の殿」とは、伊智地文太夫(いぢち ぶんだゆう)と甲斐庄正治(かいのしょう まさはる)のことである。
また当地には、約300人のキリシタン信者がいたと、そしてまた、
当地に教会堂を建てたとの記述が南蛮資料に登場する。
その場所が「ヤソブ(耶蘇部?)」では、と比定されている。
第六話は、「秀吉の命による改修」である。天正12年(1584)紀州勢(根来衆・雑賀衆など)攻略と紀州平定のため、秀吉は、岸和田城主の中村孫平次一氏(まごへいじ かずうじ)に修復の普請を命じている。
現在、我々がみる烏帽子形城址は、この時行われた普請の姿なのである。
第七話は、「浮世又兵衛(うきよ またべい)」に関することである。
浮世絵の元祖・創始者と言われる岩佐又兵衛勝以(いわさ またべい かつもち)(天正6年(1578)生~慶安3年(1650)没)の父は、摂津伊丹城主・荒木村重、母は、当烏帽子形城城主・碓井因幡守定仙(うすい いなばのかみ じょうせん)の娘「だし(たし)」と言われている。
天正6年(1578)村重は、織田信長に謀反をおこし敗退、村重の妻子はことごとく処刑された。
しかし、又兵衛だけは、乳母に助けられ京都の本願寺に匿われたと伝えられている。
世界に誇る浮世絵がこの烏帽子形城と関係があるのである。
このように烏帽子形城には、数々の歴史が刻まれている。そして城址としての遺構もしっかりと残されている。あとはこの城に足を運んで戦国期の城郭を肌で感じることである。
すると近世の城とは少し違った素晴らしさを味わうことができるであろう。(H25・12・11 探訪)
横山 豊
河内 烏帽子形城 探訪記(その1)
河内 烏帽子形城 探訪記(その2)
河内 烏帽子形城 探訪記(その3)
河内 烏帽子形城 探訪記(その4)
河内 烏帽子形城 探訪記(その5)
河内 烏帽子形城 探訪記(その6)
河内 烏帽子形城 探訪記(その7)
河内 烏帽子形城 探訪記(その8)
河内 烏帽子形城 探訪記(その9)
河内 烏帽子形城 探訪記(その10)