河内 烏帽子形城 探訪記⑨史実と伝承の区分 楠公築城説の呪詛からの解放

「過去は、静かに佇み、未来は、ためらいながら近づいて来る」と聞く。
それならば、その未来に向かって、こちらから訪ねて行こう。
我々は今後、何をなすべきかを考えながら。
まず第一は、伝承と史実との混同を無くすこと。
文献に登場しない出来事、あるいは遺物が存在しない遺跡からの言い伝えは、単なる伝承であり「文学の世界」のこと。
一方、遺物がある、あるいは文献に登場してくれば、それは「歴史学の世界」である。
残念ながら、ネット上では、この「伝承(文学)と史実(歴史学)」との混同が散見される。
例えば、烏帽子形城は、楠木正成の築城と、またその居城との見解も見られる。さらに文献にも登場しない楠公築城の年をさも史実のように記述し解説することは、いささか問題である。 烏帽子形城探訪記9
江戸時代の享和元年(1801)、秋里蘺島(あきさと りとう)が著した『河内名所図会』や嘉永6年(1853)暁鐘成(あかつき かねなり)が著した『西国丗三所名所図会』には、いずれも「碓井(うすゐ)大和守が当城に籠った」との記述がある。
また明和7年(1770)、深井彪(ふかい あきら)が編纂した『諸国廃城考』でも、当城と楠木正成との関係を示す記述はいっさい見られない。むしろ碓井因幡守のことや宮崎針太夫と草部菖蒲介などについての記述が見られる。
このように江戸時代の人たちは、烏帽子形城と楠木正成とは、何の関係もないと認識していたと考えられる。そしてまた浮世絵でも、楠木正成が千早城などで活躍する姿が描かれることがあっても、烏帽子形城で活躍している姿が描かれることはなかった。
むしろ当城と楠木正成との伝承は、明治時代になって、しかも皇国史観に則って作られてきたのではないだろうか。
当城と正成との間には、何ら関係がなくても、正成との関係を新たに作り出し、また戦前の時代的要請を受け、さらに国策上からも、このような伝承が作られ、広まって行ったと解される。
そして当城が伝承に留まり、国の史跡に指定されなかったのは、南北朝期の城郭と確定するには学術的にやはり無理があると判断されたからではないだろうか。
我々歴史を学ぶ者は、「伝承と史実」の区別が必要である。
伝承は伝承として素晴らしいものであるが、それをそのまま史実として認識することは許されない。
「伝承と史実」との関係をはっきり区別し、認識しなければならない。
それができなければ、今後も、我々は「烏帽子形城・楠公築城説」という呪詛から解放され、またそのような歴史観からの脱却もできないと考える、がいかがであろうか・・・。

烏帽子形城探訪記9

第二は、城跡としての認知活動。
烏帽子形「城」は、烏帽子形城「公園」に比べ、市民の知名度は低い。
当城は、平成24年1月に「国の史跡」に指定されているが、どれだけの人たちがこのことを知っているであろうか。また行政も市民に、さらに一般社会にそれを知らしめる努力、認知され、知名度を上げるための努力をしてきたであろうか。筆者はそのような活動はなかったと認識している。
「シンポジューム」といった硬い催しではなく、もっと気楽に城山に行きたい、中世の城を肌で感じたいと思う人たちのために見学会が開催されたであろうか。答えは、NOである。
市民はシンポジュームを聞きに行くよりも、烏帽子形城を散策するほうを好む。シンポジュームを開催していれば、市としての広報活動は充分と勘違いされていないであろうか。
また、河内長野市のホームページにもこの烏帽子形城は、掲載されていない。
従って、現在、市としての認知活動、広報活動は、ゼロと言える。
一般市民や筆者のような城郭フアンは、ネット上にこの烏帽子形城についてたくさん投稿しているが、肝心の行政が何もしないのでは、やはり納得がいかない。
さらに言えば「河内 烏帽子形城 探訪記(その6)」で、指摘したように、日本城郭協会が選定した「日本100名城」にも烏帽子形城は入っていない。そのため一般の城郭フアンは、千早城跡や赤坂城跡には行くが、烏帽子形城には来ない。これで良いのだろうか。(H25・12・11 探訪)

横山 豊

河内 烏帽子形城 探訪記(その1)
河内 烏帽子形城 探訪記(その2)
河内 烏帽子形城 探訪記(その3)
河内 烏帽子形城 探訪記(その4)
河内 烏帽子形城 探訪記(その5)
河内 烏帽子形城 探訪記(その6)
河内 烏帽子形城 探訪記(その7)
河内 烏帽子形城 探訪記(その8)
河内 烏帽子形城 探訪記(その9)
河内 烏帽子形城 探訪記(その10)