この小山が主郭である。
前回の調査では、この主郭の上部は土塁、そして主郭と曲輪との間には、堀切が構築されていたようであるが、この遺構ははっきりと確認できない。
主郭を右に見て、少し進むと、右手に主郭への登り口・虎口(こぐち)が現れる。
ここから、いよいよ主郭へ入る。
主郭には、前回来た時に並べた丸太がそのまま並んでいる。主郭に到達しても前回ほどの感激はないが、それでもまた登って来られたと嬉しさが込み上げてくる。こここそが、“石仏城の主郭”なのである。
前回は、この主郭に到達するために2時間半要したが、今回は1時間も掛からないで到達出来た。登城には、今日登って来た「鉄塔・城跡道」が良いようである。
千早赤阪村の人たちから、この石仏城を案内して欲しいとの話があったが、公式には無理、私的にはできないこともないとお話したが、今日の「鉄塔・城跡道」を登って来るなら、ご案内は充分、可能である。近々声を掛けてみようかと思う。また、今日一緒に登って来た仲間たちもご案内に付き合ってくれるとのことである。心強い。持つべきは仲間か。
主郭の上段の土塁を確認する。
西と北に土塁が築かれている。従って、当石仏城の防衛ラインは、この土塁が築かれている西と北のようである。また東の街道方面には腰曲輪が構築されているだけであるが、切岸状になっていて、防禦設備を構築する必要性がなかったと推察できる。
土塁はそれほど高くない。従って、この土塁は、矢に対する「楯」程度の防禦設備のようである。
虎口から帯曲輪に下り、主郭を右に見ながら進む。
足元にはイチゴの実が成っている。摘まんで食べると甘酸っぱく、結構美味しい。
主郭の周りは、ぐるっと帯曲輪が巡っており、主郭と帯曲輪との高低差は5~6mほどである。
主郭の南の帯曲輪に石材が散乱しているとの記述が『河内長野市城館分布調査報告書』(河内長野市発行)にあるが、実物を確認できない。
また、同『報告書』では、石仏城の所在地をこの石仏山の頂上に想定しているが、誤りである。城跡は、石仏山のさらに東の天見川から競り上がった尾根の先端に構築されており、また同『報告書』では、隣の左近城でも違った場所を明示しているが、どうしてこのように間違った記載をしているのか、理解に苦しむ。
この石仏城は、高野街道を見下ろし、それを支配下における尾根の先端に構築されている。そしてこの場所こそ、当城が戦略的優位性を発揮できる位置なのである。(H26・2・4 探検)
横山 豊
奥河内 石仏城 探検記(その1)
奥河内 石仏城 探検記(その2)
奥河内 石仏城 探検記(その3)
奥河内 石仏城 探検記(その4)
奥河内 石仏城 探検記(その5)