中村輿次兵衛(その4)今もなお河内長野の恩人!!

我々と水との係わりには、“活用と治水、”の二つある。
まず活用には、飲料(上水道)や灌漑(かんがい)、あるいは水運などがある。
飲料(上水道)では、天文14年(1545)に構築された小田原の早川上水(小田原市)や、承応3年(1654)に玉川庄右衛門によって羽村市と江戸市内に構築され、43Kmにも及ぶ玉川上水(東京都)もある。
活用の第二は、灌漑(かんがい)である。
我らが中村與次兵衛が構築し、寛文元年(1661)に竣工した寺ヶ池とその井路や7世紀初め、行基が築堤したと伝わる狭山池(大阪狭山市)がそれに当たる。
活用の第三は、流通の円滑化をはかるために構築された水運である。
元和元年(1615)、安井道頓が木津川と東横堀川の間に2.5Kmを開削した道頓堀(大阪市)や、明治23年(1890)、田辺朔朗が指揮監督し、滋賀県の大津市と京都府の山科区南禅寺町間に完成させた11.1Kmにおよぶ琵琶湖疏水(京都市)がある。
活用の第四は、縄文時代、その集落を守るために掘られた周濠や近世城郭の堀など、防御施設としても水は活用されてきた。

一方、我々と水との係わりの第二は、堤防の決壊や氾濫浸水の防止を目的とした“治水”がある。
宝永4年(1707)、中甚兵衛は、柏原と浅香山間に総延長14.3Km及ぶ大工事を行って完成させた大和川(大阪府)の開削・付替工事がある。
また明治43年(1910)、大橋房太郎は、大阪市都島区毛馬と此花区常吉の間に11Kmに及ぶ淀川(大阪府)の付替工事を行っている。

このように我々と水との係わりは、数多くあるが、寺ケ池は“灌漑用水”確保のためだけに構築された溜池であったので、その井路は、現在に至るまで“水運(舟運)”や“上水道”として活用されることはなかった。

ここで寺ケ池構築の意義を考えてみよう。
まず第一は、“戦後の復興と所得倍増計画”である。
ここで言う戦後とは、勿論“関ヶ原の戦い”後のことであるが、この戦いの後、諸大名は国替えを余儀なくされ、そのためそれによる居城の構築や藩士の役宅の建設など、いわゆる“公共事業による領国の活性化”が喚起された。これが“第1期の列島改造期”である。
“第2期の列島改造期”は、いわゆる“農業生産高の増大”による“所得倍増計画”である。
諸藩は“公共事業による領国の活性化”が収まってくると、次に灌漑用水路を積極的に開削し、新田の開発に力を入れ、“農業生産高の増大”による“所得倍増計画”を推し進めた。“寺ヶ池とその井路”の構築もその一つである。
その経済的効果は、税収の増加とそれによる藩の財政基盤の強化であった。また生産量の増大は、領民(農民)にも富が蓄積され、その生活も安定させたと考えられる。
その結果、文芸(俳句・川柳など)や芸能(歌舞伎・文楽・芝居・落語など)、あるいは寺子屋やお稽古事など、また神社仏閣へのお参りなどの旅行が興隆したと考えられ、華やかな元禄文化の華が咲いたのもこのような新田開発が全国規模で行われた結果と考えられる。

この“寺ヶ池とその井路”の構築、そしてそれによる新田の開発は、新しい時代を開いた。
そしてそれを可能にした男、それが中村輿次兵衛(なかむら よじべえ)なのである。我々は、この“偉大な人”にもっと敬意を払うべきではないだろうか。過ぎ去った時代の英雄・豪傑も魅力的である。
しかし民衆のために立ち上がり、努力を重ねた人こそ、“真の英雄”ではないだろうか。そして時代を越えて今もなお我々がその偉業を甘受できるのも、このように“偉大な人”がいたからではないだろうか。
中村輿次兵衛こそ、当地にとっての恩人であり、最も“スゴイ人”ではないだろうか。(完)

(筆者注)「三日市の駅」『西國丗三所名所圖會』より
『寺子屋図』河出書房新社『図説 江戸の学び』より

奥河内の閑適庵隠居 横山 豊

中村輿次兵衛(その1)世界遺産を造った男になるか??
中村輿次兵衛(その2)寺ヶ池の構築
中村輿次兵衛(その3)14Kmの井路を築く!!