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西高野街道が河内長野に入り、北坂を登って少し進むと松林寺に至る。 当寺は鎌倉期の僧・叡尊(えいぞん)が創建したと伝える真言律宗の古刹である。
南朝の後村上帝が摩尼院に、そして北朝の三上皇が観蔵院(現・奥殿)に住まいしていたことから天野山金剛寺は、南北朝時代の6年間、南朝の都であった
奥河内の名刹・三ヶ寺のうち、筆頭寺院は河合寺で観心寺と金剛寺がそれに続いた。しかし河合寺は衰退し、現在、河内長野での名刹は、延命寺と観心寺、
松林寺横の春日神社に無患子(むくろじ)の樹がある。 この樹の種子は羽根つきの羽根の玉に使われるが、また数珠の珠としても活用されてきた。
千社詣(せんじゃもうで)と言われる習俗がある。 願い事が叶うように数多くの社寺を巡拝し、お参りした社寺にその証として参拝者が手書きのお札を納
河内長野市には、槙尾山施福寺から金剛寺を経て葛井寺に至る巡礼道が走っており、かっては多くの巡礼者がこの道を行き交ったことであろう。 西国三十
空海が泉州槇尾山(まきのおさん)で修行していた時、長野の諸越長者(もろこし ちょうじゃ)の家に泊まらせてもらっていたが、空海は、そのお礼に空
主郭をあとに、登って来た道を下る。 目印のテープが効いている。道に迷うこともない。しばらくルンルン気分で下るが、途中で目印が消え、道は何処?
この小山が主郭である。 前回の調査では、この主郭の上部は土塁、そして主郭と曲輪との間には、堀切が構築されていたようであるが、この遺構ははっき