キリシタンの町 河内長野 ! !

安土桃山時代、河内長野市は、キリシタンの町であった。
 当時来日していたキリシタン宣教師は、「烏帽子形(河内長野市喜多町)と称する他の城がある。この城と周囲に在る多数の村は、三人の領主の治る所であるが、そのうちの二人はキリシタンであって、約三百人のキリシタンがいる」と。そして「当所に壮麗な聖堂を建つることを決し、すでに木材その他の材料を集めている」と。さらに同市内の中央に「仮の小聖堂を設けた」との記述も残している。
そしてまた「多数のキリシタンの参集を得て、荘厳なるミサも歌った」とも記している。
聖堂が建ち、ミサが行われ、当然のことながらクリスマスも行われていたのであろう。そして、どこからともなく讃美歌が聞こえてくる。400年ほど前、河内長野市はそんな町であった。
しかし禁教令が発布されると、キリシタンは、追放され弾圧された。そして棄教する人たちもいたが、それでも頑なに教えを守る人たちもいた。彼らは隠れキリシタンとなって潜伏し、その信仰を伝えていた。
河内長野市には、それらの遺物が数多く残されている。 
マリア像は、野作の薬師寺の白衣観音や上田・増福寺のマリア観音、また鳴滝には首なしのマリア像もある。そしてそれらはマリア像ではないとの証のため、首をワザワザ折って秘かに信仰していた。
あるいは、喜多町の大日寺跡には不思議な形をしたヤソ地蔵も祀られている。
さらに流谷には「シタニ」や「テウロ」あるいは「淨金(ヨハキン)禅門」などキリスト教信者の洗礼名が刻された十三仏碑が存在するし、石坂の明忍寺には、クルスが刻された台石もある。
そしてまた「PhI」と彫られたキリシタン燈籠や天年号の墓石など、キリシタン遺物が町中に残されている。さらに加賀田の来守山やクルス谷、喜多町のヤソブなど、キリシタンに関係していると考えられる小字名も見られる。
安土桃山時代、河内長野は、キリシタンの町であった!!

神に見放された氏子よ、 仏の加護のない仏教徒たちよ、 さあ、迷える子羊たち!!
「私のもとに来なさい」と、この12月の25日は誘われているようである。そして我々は、イヴの夜だけ、一夜限りのキリシタンになっている。
 我々は、昔から神でも仏でも拝んだ。道端の小さな塞ノ神にも手を合わせてきた。願を叶えてくれるモノには何でも手を合わせ、時には、必要に応じて祈る神仏も取り換えた。受験の時の天神さん、商売繁盛の恵比須さん、お宮参りの氏神さん等など。
イヴの夜だけキリシタンになってどこに問題があろう。我々はズーとそうしてきたのである。
さて、ケーキは予約した。勿論、ホテルも予約した。準備は万全。
しまった!! 一緒に泊まってくれる相手がいない。

(三田 九郎)