河内長野のクロスワード『高野街道編(解説)』

【タテの解説】
2:安倍晴明(セイメイ)は、江戸時代には歌舞伎や文楽に登場。晴明塚は、晴明が自らの予言が当たらないことを嘆き、学んだ書物を焼いた灰を埋めた所と伝わる。石碑の文字は「清明」から「晴明」に彫り直をされている。
4:高野山女人堂への道しるべ・里程(リテイ)石は、堺から高野山まで13基現存しているが、当市には、9里石(長野・古野町)8里石(三日市町)、7里石(天見)の3基が残されている。
6:庚申(コウシン)堂には、庚申待ちの祭神・青面金剛が祀られている。庚申の夜に眠ると体から三尸が抜け出して天帝にその人の悪事を告げると言われている。そのため村人たちはここで徹夜をし、時には一晩中酒盛りをしていたと伝わる。
7:三日市(ミッカイチ)宿の南には石見川、西と北を天見川が、そして東には石見川から分岐した導水路が流れ、三日市宿は川に囲まれた環濠集落。
8:本多(ホンダ)忠統は、正徳元年(1711)、東に高野街道が、北から西に巡礼道が走る交通の要衝地・西代に陣屋を構築したが、享保17年(1732)本多家は、伊勢神戸に転封となり、藩は21年間、存続しただけで消滅してしまった。
11:西(ニシ)高野街道は、4っある高野街道のうち、堺を起点として河内長野に至る街道。なお高野街道はここから女人堂まで一本となって続いていく。
13:大日(ダイニチ)寺そばの耶蘇部(ヤソブ)と呼ばれる地にキリスト教の教会堂が建てられていたとの伝承が残る。
14:現在の烏帽子形(エボシガタ)城は、天正12年(1584)、中村一氏が構築した姿である。ちなみに河内長野の中世は、阿観による天野山金剛寺の再興からこの城の廃城までと考えられている。
18:月輪(ガチリン)寺の本尊・薬師如来は、空海の作で諸越長者へのお礼として空海から贈られたと伝えられている。
22:湯立て(ユタテ)神事とは、巫女が笹の葉を湯にひたし、その湯を巫女自身や参拝者に振りかける儀式で、禊の一種と考えられ、烏帽子形八幡神社や流谷の八幡神社、蟹井神社、長野神社などでも行われている。
23:長野神社の松明(タイマツ)立神事は、勧請する祭神が鎮座地を間違えないようにと松明を揚げてご案内したことに由来する神事である。

【ヨコの解説】
1:狭山茱萸木の住人・五兵衛(ゴへイ)と小左衛門は、堺の大小路から高野山女人堂までの里程石建立の発起人。
2:盛松(セイショウ)寺の御本尊は、空海自身。毎年12月21日の“終い弘法”には、当寺で柚子味噌が配られている。
3:松林(ショウリン)寺には、秘仏の歓喜天が祀られているが、この仏を猥らな目で見ると罰が当たると伝えられている。
5:寺ヶ池(テラガイケ)は、令和3(‘21)年11月、“世界かんがい施設遺産”に認定された。
6:高野山への参詣道には、石清水八幡宮を起点とし、生駒山の西麓を南下する東高野街道、堺を起点とする西高野街道、平野一里塚を起点とする中高野街道、そして四天王寺を起点とする4本の高野(コウヤ)街道があった。
9:昭和27年に改築された旧三日市交番(コウバン)は、河内長野市の近代建築の一つで、大阪府で唯一の木造の派出所遺構。ちなみに河内長野の交番は、明治7年(1874)、上田の金刀比羅宮に開設された古市警察署上田屯所に始まる。
10:寺ヶ池とその水路は、河内長野市の貴重な世界遺産である。
12:月輪寺と真教寺、増福寺、旧正保寺の4ヶ寺は、上田町で寺町を形成し烏帽子形城の出城(デジロ)の役割を果たしていた。
15:真教(シンキヨウ)寺の創建は不明。元和年間(1615~23年)、天台宗の阿弥陀寺から浄土真宗の真教寺に変ったと伝わる。嘉永年間(1850年頃)楠宝観により寺子屋が開かれたが、当地には裁縫塾や黒谷左六郎の剣術道場もあった。
16:大正9年、弘法大師像と日限(ひぎり)地蔵が祀られていた井戸のそばに大師(ダイシ)寺が開創された。なお“諸瀬(もろせ)大師のあさり水”と呼ばれるこの井戸の水で湯を沸かしお風呂に入ると病気が治るという言い伝えがある。
17:当寺の御本尊は、石造りであることから石仏(イシボトケ)寺と呼ばれるが、正式には曼荼羅山阿弥陀寺。近くに弘法井戸もあり、今も清水が湧いている。

19:伊智地(イジチ)文太夫は、キリシタン禁制により天正15年(1587)烏帽子形城を追放され、南肥後の小西行長を
頼ったが、その後討死した。文太夫夫人の妹は、高槻城主 高山右近夫人である。
20:“蟹井(カニイ)の淵”から出現したと伝わる蟹井神社のご神体は、鏡や打出の小槌、あるいは丸石神であったのか不明。
21:尊王討幕派の天誅(テンチュウ)組 は、諸藩の藩兵により鎮圧されたが、この乱は、武力倒幕の先駆であった。なお天誅組の盟主・中山忠光は、明治天皇の叔父にあたる。
24:長野(ナガノ)神社の本殿は、重要文化財であるが手で触ることができ、またこの神社には恵比須さまが祀られ、お堂の裏に“恵比須起こしの鉦”が掛けられている。
25:土塁(ドルイ)は、土を盛り上げて築いた砦で、安土城の出現まで、中世の城では石垣よりもこの土塁で構築された防御壁が一般的であった。
26:南海高野線の美加の台付近から天見の蟹井神社に至る廃線道は、“なんてんのみち”と呼ばれている。ツツジや紫陽花、八重桜も多く、この道は、“花樹の道”と言える。
27:安明(アンミョウ)寺の諸仏は、弘化3年(1846)の再建時、高野山の仏師に彫ってもらったものを村人たちが背って持ち帰ったと伝わる。
28:明忍(ミョウニン)寺は、河泉24地蔵霊場第11番札所。当寺には忠臣蔵で有名な赤垣源造の叔父・赤埴(あかはに)勝正や伊勢
神戸藩長野代官の吉川治太夫の墓がある。
29:畠山比佐(ヒサ)の裁縫塾がのちの上田の裁縫学校設立の動機になったと言われ、比佐の学徳を称える碑が明治42年、門弟たちにより建立された。撰文は漢学者の藤沢南岳。

【解答欄:A】日本遺産
A B C D E C
ニ ホ ン イ サ ン

【解答欄:B】中世に出逢えるまち
F G H I D A J K L M N F
チ ユ ウ セ イ ニ デ ア エ ル マ チ