河内長野のクロスワード『天野山金剛寺(解説編)』

R4(‘22)年7月20日   横山 豊

【タテの解説】
 1:真言(シンゴン)宗は、空海が開いた仏教の宗派。高野山に金剛峯寺を建て、加持祈祷を重視した。宗派には、高野山真言宗(金剛峯寺)や東寺真言宗(東寺)、あるいは御室派(仁和寺)、醍醐派(醍醐寺)などがある。
 2:空海(クウカイ)は、当寺で修行したと伝わり、裏山にその呼称を残している。
 3:求聞持(ぐもんじ)堂は、真言密教の求聞持法を修行する所であるが、ここの本尊は虚空蔵(こくうぞう)菩薩(ボサツ)。なお菩薩は、悟りを求めて修行を重ねつつも衆生を救済する尊格。
 4:本尊の大日(ダイニチ)如来は、平成29年(‘17)、不動明王、降三世明王と共に国宝に指定された。
 5:阿観上人は、金剛寺を再興するにあたり、丹生(ニウ)明神や高野明神、さらに当地の神・水分(みくまり)明神を金剛寺の鎮守として勧請している。
 6:宇多天皇が開山、落飾したあと、仁和寺のそばに住んだが、これに由来して同地は、御室(オムロ)と呼ばれている。御室派は、仁和寺を本山とする真言宗の一宗派で、建久6年(1195)、金剛寺も仁和寺の末寺になっている。
10:昭和52年(1977)、河泉地蔵霊場会により河内国12ヶ寺、和泉国12ヶ寺で構成される“河泉(カセン)24地蔵霊場“が定められた。金剛寺では、五仏堂に“子安地蔵尊”が祀られている。
11:食堂(ジキドウ)は、元々僧が食事をする場所であるが、南北朝時代の6年間、後村上天皇がここで政務を執ったことから「天野殿(あまのでん)」と称されている。
12:尊勝(ソンショウ)曼荼羅(まんだら)は、密教において災害の消滅や延命、祈雨などの息災増益を祈念して執り行われる尊勝法の本尊として用いられる曼荼羅で、これを立体化したものが金堂の三尊像(国宝)である。
13:護摩(ゴマ)には、息災(そくさい)(病気平癒)、増益(ぞうやく)(学業、商売繁盛)、敬愛(良縁成就)、降伏(ごうぶく)(敵国)の4種類があるが、護摩堂では、護摩木が焚かれる。
16:南北朝時代、後村上天皇が「天野殿」で政務を執ったことから、天野山金剛寺は、“天野行宮(アングウ)”と称さされ、そのため金剛寺は南朝の都であった。ちなみに行宮とは、天皇の仮の宿舎のこと。
18:中世(チュウセイ)は、公家や武家、寺社がそれぞれ力を持った時代で、弁慶や正成、信長、秀吉などの英雄豪傑が活躍する時代でもある。しかし江戸時代になると、武家(江戸幕府)が全国を支配する唯一の政権となり、ここに
近世が始まった。
19:『日月(ジツゲツ)四季山水図』屏風は、室町時代の作品で、荒海で囲まれた山並みに四季の変化(桜花・紅葉・白雪など)と日(じつ)(太陽)・月(げつ)が描かれ、構図は躍動感にあふれている。平成30年(‘18)、国宝に指定された。
21:摩尼院(マニイン)は、摩尼珠で造られた宮殿、弥勒菩薩の居所のこと。後村上天皇が6年間、行(あん)在所(ざいしょ)にしたと伝わるが、このことは当時でも摩尼院は、金剛寺の子院・約80の内でも最も有力な子院の一つであったと考えられる。なお現建屋は、慶長期のもので、書院は書院造りのうちでも初期のものと考えられている。
22:慶長11年(1606)、豊臣秀頼(ヒデヨリ)は、多宝塔や五仏堂の修理をしたが、擬宝珠には「天野山 寶塔 右大臣 豊臣朝臣秀頼公」などとその銘が刻まれている。
25:金剛寺で醸造されていた天野酒は、永享4年(1432)の『看聞御記』に初めて登場する。天野(アマノ)酒は、多くの戦国武将に愛飲されていたが、同時に当寺からも戦国武将に天野酒を贈り、よしみを通じるための贈答品でもあった。

【ヨコの解説】
 1:承安2年(1172)阿観は空海の御影を奉安し御影供(みえいく)を行ったが、これ以降、正御影供(ショウミエク)は、850年に渡り金剛寺で執り行われている。
 7:寺院の本尊を安置するお堂は、真言宗では主として“金堂(コンドウ)”といわれるが、天台宗(山門派)や浄土宗、あるいは浄土真宗や日蓮宗などでは“中堂”とか“本堂”、そして禅宗では“仏殿”と称されている。
 8:修験道で野外で行われる柴のかがり火は、“柴燈(サイトウ)護摩供”と言い、天下泰平、国家安穏のために行われている。
 9:後村上(ゴムラカミ)帝は、吉野の賀名生(あのう)から来寺、正平9年(1354)から6年間、当寺で政務を執った。
14:後村上天皇が当寺に入り、また北朝の三上皇が観蔵院に幽閉されていた南北朝時代、金剛寺、あるいは河内長野は、“南(ナン)朝の都”であるばかりではなく、“日本の都”でもあった。
15:令和2年(‘20)、天野山金剛寺が日本遺産として“女人(ニョニン)高野”に認定されたが、慈尊院(九度山町)や室生寺(宇陀市)、あるいは高野山金剛峰寺の女人堂(高野町)も同時に認定されている。
16:仏前に供える水を閼伽(あか)、この水を汲むための井戸を閼伽井、建屋を閼伽井屋(アカイヤ)と言うが、「閼伽=aqua=水」で、閼伽は世界共通語。aqualung(水中肺)、Aquarius(水瓶座)などもある。
17:八条(ハチジョウ)女院は、鳥羽上皇の皇女で、後白河法皇の妹。金剛寺に多くの所領を寄進しているが、金剛寺が再興できたのは、この八条女院の支援が大きかったからと考えられる。
20:元禄13年(1700)、江戸幕府は、岸和田藩に金剛寺の修理を命じたが、この時、岸和田藩主・岡部(オカベ)
美濃守長泰(ながやす)は、手水舎(てみずや)の盥盤(たらいばん)を寄進している。
23:和泉国大鳥郡出身、高野山で密教を学んだ阿観(アカン)は、金剛寺を再興した。
24:北朝の三上皇は、幽閉されていた三年間、観蔵(カンゾウ)院(現・奥殿)を行在所にしていた。
26:観月(カンゲツ)亭は、御影堂の東に増築されたもので、秋里籬島による『河内名所図会』には、月見に興じる人々の姿が活写されている。
27:巡礼(ジュンレイ)とは、“遠方”の、しかも“複数の聖地を巡ること”であるが、わが国ではその聖地の数を一定の数(33とか88とか)に限定し、しかもその聖地に番号をつけている。西国丗三ヶ所観音巡礼では、
4番の槙尾山から5番の葛井寺への巡礼道が金剛寺の境内を貫き走っている。
28:河内長野には、日本遺産(イサン)が三つあるが、金剛寺は“女人高野”だけでなく、“中世に出逢えるまち”の構成文化財の一つにも認定されている。

  

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