河内長野のクロスワード『三日市宿編(解説)』

【タテの解説】
1:天見川で水車を廻し油を搾っていたことから、屋号は油(アブラ)屋と称し栄えていた。建屋や庭園、茶室などが残っていたが、現在、それらは全て撤去され、残念ながら昔の面影は一切残っていない。
2:寺子屋(テラコヤ)は、江戸時代の庶民の教育機関として、その教育水準を大いに高めたが、明治以降は消滅した。
現代では“塾”と名を変え地域住民の教養を高める講座や趣味の活動の場として継承、発展している。
3:河内長野はかってキリシタンの町であった。そのため上田の増福寺のマリア像だけでなく、市内では白衣観音(野作薬師寺)や首無マリア(鳴滝)など数体のマリア像を見ることができる。
4:高札(コウサツ)は、住民に法度(はっと)や掟書(おきてがき)などの法令を徹底させることが目的で、南北朝期から明治初年まで続いていたが、明治6年(1873)、廃止された。三日市宿の高札が烏帽子形八幡神社に保存されている。
5:里程(リテイ)石は、13基現存しているが、当市には、9里石(長野・古野町)8里石(三日市町)、7里石(天見)の3基が残されている。なお三日市宿の8里石は、里程石のうちで最も大きい。
7:浄土真宗(シンシュウ)は、“一向宗”とも呼ばれ、一向(ひたすら)念仏を唱えれば誰でも極楽に往生できると説く。
8:五兵衛(ゴへイ)と小左衛門は、堺の大小路から高野山女人堂までの里程石建立の発起人となり、施主を募り13基の里程石を建立した。
17:本陣(ホンジン)や脇本陣は、宿場に設けられた旅籠であったが、明治3年(1870)廃止された。
19:畠山義深は、上田の隠居所・七宝庵に住んでいたが、その亡きあと、義深の院号「増福殿」から増福(ゾウフク)寺と号する寺が建てられた。
20:明治39年(1906)の神社合祀政策により、小塩の“八幡宮”が烏帽子形八幡神社に合祀された。上田の金刀比羅(コトヒラ)宮の社殿は、その小塩の八幡宮の社殿を譲り受けたものである。
21:役(エン)行者(役小角)は、大峯山にその修行の場を移すまで葛城山や岩湧山で修行していたと伝えられている山岳仏教の修行者。
23:上田村の田中喜久治は、河内の鋳物師(イモジ)職を田中佐太郎(吉年家)に譲った。佐太郎はその時吹場を長野に移している。佐太郎の作品が金剛寺や観心寺に残されている。
24: 河内長野市では、由緒があり、しかも市民に親しまれている樹木を保護樹木(ジュモク)に指定し保護している。
25:寺(テラ)町とは、寺院が集中して配置された地域で、多くの城下町では寺院を城下の外縁にまとめ、出城的役割を担うように配置している。烏帽子形城では、月輪寺と真教寺、そして増福寺と旧・正保寺の4ヶ寺が上田町で寺町を形成し防御力を高めている。

【ヨコの解説】
 1:当て曲げ(アテマゲ) とは、交差する辻角の街路を半間ほどズラシ、侵入者が直進しにくくした道のこと。なお“当て曲げ“と”曲線の道“とでは、“見通しを悪くする”という目的は同じでも構造は全く異なる。
6:“諸瀬(もろせ)大師のあさり水”で風呂に入ると病気が治るという言い伝えのある井戸のそばに、弘法大師像と日限(ひぎり)地蔵が祀られていた。大正9年(1920)、大師(ダイシ)寺は、この地に開創された。
9:“堂(ドウ)の辻”は、天見川を越え三日市宿に立ち寄ることなく紀州と結ばれる分岐点であった。そのためこの辻は、高札場になっていた。
10:昭和52年(1977)、河内国12ヶ寺、和泉国12ヶ寺で構成される“河泉(カセン)地蔵霊場”が定められた。
11:上田の旧三日市小学校跡地に畠山比佐(ヒサ)の学徳を称える碑が明治42年(1909)、門弟たちにより建立された。なお撰文は漢学者の藤沢南岳。
12:畠山比佐は、上田で裁縫(サイホウ)塾を開き、多くの子女の教育を行っていたが、これがのちの上田の裁縫学校の設立の動機となったと言われている。
13:役場(ヤクバ) とは、村や町の行政機関。なお市や区の場合は、市役所とか区役所、そして都道府県の場合は、庁と呼ばれる。
14:天誅(テンチュウ)組 は、諸藩の藩兵により鎮圧されたが、武力倒幕の先駆であった。
15:諸越(モロコシ)長者の屋敷は、長野公園に、そして箸塚は公園の北端に築かれている。
16:真教(シンキヨウ)寺の創建は不明。元和年間(1615~23)、堺から来た僧が天台宗の阿弥陀寺から浄土真宗の真教寺に変更したと伝わる。嘉永(1848~53)頃、楠宝観により寺子屋が開かれ地域住民の教育レベルが向上した。
18:中山忠光(タダミツ)は、尊王討幕派の公家で天誅組の盟主、明治天皇の叔父にあたる。
20:狭山茱萸木の住人・五兵衛と小左衛門(コザエモン)は、安政4年(1857)、13基の里程石を建立した。
22:盃状(ハイジョウ)穴 は、世界中で見られ、再生や不滅のシンボルとして、また女性シンボルと関係があるとされ、子宝に恵まれる事を願って信仰されてきた。上田の金刀比羅宮の境内には多くの盃状穴が穿たれた手水鉢とお百度石がある。
26:月輪(ガチリン)寺の本尊・薬師如来は、弘法大師空海の作で諸越長者へのお礼として贈られたと伝えられている。
27:昭和27年改築された旧三日市交番(コウバン)は、河内長野市の近代建築の一つで、大阪府で唯一の木造の派出所遺構。
ちなみに河内長野の交番は、明治7年(1874)、現・金刀比羅宮に開設された古市警察署上田屯所に始まる。
28:柳原白蓮(ビャクレン) は、昭和26年5月、三日市の油屋で歌会を開催し油屋から眺めた風景を詠んでいる。
ちなみに白蓮は、雅号で大正天皇とは従兄妹になる。NHK連続テレビ小説「花子とアン」に登場する伯爵令嬢が白蓮のモデルと言われている。
29:隠れキリシタンは、禁教の江戸時代でもキリスト教の信仰を続けた“潜伏(センプク)”キリシタンと、禁教が解かれた明治以降もその信仰を続けている“隠れ”キリシタンに分類される。増福寺のマリア像などは、潜伏キリシタンの遺物と考えられる。

【解答欄】環濠集落
三日市宿 A B C D E F G H I
カ ン ゴ ウ シ ユ ウ ラ ク

三日市宿編解説