河内長野のクロスワード 『人物・解説編』

 河内長野は、山青く、水清らかな地である。
この地では、古来より幾多の歴史が刻まれ、多くの文化遺産や史跡が残された。そしてそれらに
ゆかりの人たちが、その名を当地に留めている。
当地を散策すると、これら多くの史跡や文化財が、我々を待っているし、これらに関わった人々との出会いもある。クロスワードを解いて知的な世界に遊べましたか。史跡や文化財にあふれた河内
長野を探訪したいと思われましたか。

R4(‘22)・2・2  横山 豊

 【タテのカギ】
1:畠山比佐(ヒサ)は、幕末から明治期にかけて上田村で裁縫塾を開き多くの門弟を育てた女性教育者で、上田の旧三日市小学校跡に門弟により師の学徳を讃える石碑が建てられている。
3:安倍晴明(セイメイ)は、平安中期の陰陽師で、天文学に通じ、『今昔物語』にも登場。母は信太山の狐・葛の葉と言われ、江戸時代には歌舞伎や文楽に登場。晴明塚は、晴明が自らの予言が当たらないことを嘆き、学んだ書物を焼いた灰を埋めた所と伝わる。 
4:高向玄理(クロマロ)は、608年、遣隋使として中国に渡り640年帰国。大化の改新に国博士として参画。日本の古代国家の政治体制を定めた。
5:柳原白連(ビャクレン)は、大正から昭和にかけて活躍した歌人、文筆家で、昭和26年5月、高野山に参詣する途中、三日市の油屋に滞在。旅館から眺めた風景を詠み、また詠会を開催している。ちなみに白蓮は、雅号で大正天皇とは従兄弟になる。
6:仲哀(チュウアイ)天皇は、江戸時代までその陵墓が上原に比定されていた天皇で、『西国三
十三所名所図会』や『河内鑑名所記』に描かれ、今も石碑が立つ。なお文久4年(1864)の
「文久の修陵」で上原説は否定された。仲哀と言われてもよくわからないが、日本武尊の子で、妻は三韓征伐をしたと伝わる女傑の神功皇后、子が応神、孫が仁徳天皇である。
8:八条(ハチジョウ)女院は、金剛寺の阿観に帰依し、金剛寺に多くの所領を寄進、金剛寺を
女性でも参詣できるお寺“女人高野”にした鳥羽上皇の皇女で、後白河法皇の妹である。
11:辰野(タツノ)金吾は、明治から大正時代、日本の建築界に指導的役割を果たした建築家。
作品に、南天苑や武雄温泉・龍宮城、日本銀行大阪支店、東京駅丸ノ内本屋などがある。
13:延宝5年(1677)、浄厳(ジョウゴン)は、延命寺を開山。5代将軍徳川綱吉の帰依を受け、
江戸に霊雲寺も創建した。
14:伊智地(イジチ)文太夫は、烏帽子形城のキリシタン領主の一人だったが、キリシタン禁制により天正15年(1587)烏帽子形城を追放され、南肥後の小西行長を頼ったが、その後
討死した。
15:蓮体(レンタイ)は、延命寺二代目住職で延命寺の堂宇を造営し、元禄16年(1703)、「如意輪観音」を本尊として刻ませ安置している。
17:後村上(ゴムラカミ)帝は、正平9年(1354)から6年間、金剛寺で、そして正平14年(1359)から10ヶ月間、観心寺で政務を執った。その間、河内長野は南朝の都だった。御陵は観心寺にある。

18:畠山義深(ヨシフカ)は、南北朝期の河内国の守護職。上田村の堂の辻の西に七寶庵(現・増福寺の西側)を設け隠居していた。義深亡き後、義深の院号「増福殿」から寺号を「増福寺」とする寺院が建てられた。
19:夏目(ナツメ)庄吉は、長野郵便局の初代局長で、大正末期から昭和6年秋まで6年余りの
歳月をかけて滝畑に摩崖仏2体(左:地蔵菩薩、右:観音菩薩)を彫った。
20:田中(タナカ)喜久治・佐太郎は、河内鋳物師で、上田の三日市幼稚園そばを吹場にしていた。その後、鋳物師職を田中(吉年)佐太郎に譲り、吹場も長野に移された。なお観心寺や金剛寺の梵鐘はこの田中佐太郎の作品である。
22:河内長野出身の長野(ナガノ)一郎は、文久3年(1863)の尊王討幕派の乱=天誅組の乱に参加、五條代官所に討ち入った。ちなみに一郎は、福沢諭吉と同じ年、緒方洪庵の適塾で医学を学んでいた。

【ヨコのカギ】
1:慶長11年(1606)、豊臣秀頼(ヒデヨリ)は、金剛寺の金堂や多宝塔を修復した。多宝塔や五仏堂の擬宝珠にその銘が刻まれている。
2:本多忠統(タダムネ)は、西代藩二代目藩主。正徳元年(1711)、東に高野街道が、北から西に巡礼道が走る交通の要衝・西代の地に陣屋を構築した。これが江戸時代、河内長野に存在した唯一の藩であったが、享保17年(1732)、本多家は、伊勢神戸に転封となり、藩は21年間、存続しただけで消滅してしまった。
7:役(エン)の行者は、飛鳥時代の呪術者で山岳仏教の修行者。役小角とも言う。鎌倉以降、
葛城修験道の開祖とされる。
9:黒谷(クロヤ)左六郎重寛は、江戸桃井道場の出身で、明治時代、烏帽子形八幡神社の神職として当地に居住、上田で剣術指南をしていた。顕彰碑が同神社に残る。
10:大江時親(トキチカ)は、鎌倉幕府の評定衆で加賀田郷に隠棲していた時、多聞丸(楠木正成の幼少期)に兵法を教えたと伝わりその顕彰碑が神納の地に立つ。   
 
12:慶安2年(1649)、中村與次兵衛(ヨジベイ)は、寺ヶ池とその水路を構築、そして令和3年
(‘21)寺ヶ池は、河内長野で唯一の世界遺産“世界かんがい施設遺産”として認定された。
16:阿観(アカン)は、高野山で学んだ後、八条女院らの信頼を得て、承安2年(1172)、金剛寺で御影供を行い、治承2年(1178)、金堂を建立して金剛寺を再興した高僧。
20:たし(だし)は、烏帽子形城のお姫様で、信長の妹・お市の方や細川ガラシャと共に戦国期の美人の一人。なお“たし(だし)”と言う名は、伊丹有岡城の{出(だし)丸}に住んでいたことに由来しての愛称である。
21:中山忠光(タダミツ)は、江戸幕府を倒そうと挙兵した尊王討幕派の公家で天誅組の盟主。
なお忠光は、明治天皇の叔父にあたる。
23:蘇我入鹿(イルカ)は、飛鳥時代の政治家で権勢を振ったが、乙巳の変(大化の改新)で
中大兄皇子と中臣鎌足に討たれた。河合寺創建。
24:中村一氏(カズウジ)は、天正12年(1584)、日本の中世を終わらせ、近世の扉を開くもととなった烏帽子形城を築いた戦国武将。なお烏帽子形城は、国の史跡であり、日本遺産でもある。                 
25:八木(ヤギ)家は、江戸時代より昭和初期まで三日市宿で酒造業を営んでいた。銘柄は「味香一正宗」や「米の露」など。

河内長野のクロスワード 人物編 解説

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