河内長野のクロスワード『滝畑編(解説)』

【タテの解説】
2:岩湧(イワワキ)山の頂上付近のススキは、毎年冬にカヤの刈り取りがあり、その後山焼きが行われている。焼くな(897)と言われても焼かれるカヤ場。
6:蔵王(ザオウ)峠は、大阪府と和歌山県の県境で、堺を起点とする府道61号線「堺かつらぎ線」はここで終わる。
8:炭焼き(スミヤキ)の歴史は古く、弥生時代にすでに始まっていたようである。炭には、黒炭と白炭があるが、炭窯の中での燃焼温度とその炭材の冷やし方で黒炭か白炭か異なってくるようである。
9:ふるさと(フルサト)文化財の森は、檜皮では金剛寺、観心寺、滝畑の千石谷、カヤでは岩湧山の4ヶ所が設定されている。なお滝畑ふるさと文化財の森センターは、修復資材の供給や技能者の養成などの啓発活動の拠点として活動している。
12:ふる森センターに残されている力(チカラ)石は、一種の通過行事の遊びに使われた。幾種類もの石から自分の実力に合った石を持ち上げていたようである。
15:葛城の峰々は神々が住まう地として古来より崇められ、役行者が修行を積み、また法華経を埋納した地でもある。この経塚などの行場を巡って行う修行を“葛城(カツラギ)修験”と言い令和2年、日本遺産に認定された。
16:北条(ホウジョウ)氏は、早雲を祖とし、小田原を本拠にした戦国大名であったが、秀吉の小田原征伐で滅亡、のち許されて、狭山を本拠に陣屋を構え滝畑を領していた。
17:槙尾山施福(セフク)寺は、第4番の札所で、行満(ぎょうまん)上人を開基とし、空海が当寺で修行、剃髪得度したと伝わる。
令和元年、日本遺産“1300年つづく日本の終活の旅~西国三十三観音巡礼~”に認定されている。
21:滝畑湖の断崖に観音菩薩(右)と地蔵菩薩(左)の二体の摩崖(マガイ)仏が刻まれている。この摩崖仏は市内で唯一のもので、大正末期着工、昭和6年秋の完成まで6年の歳月を費やして彫られた。
22:役小角(オヅヌ)は、飛鳥時代の呪術者、修験道の祖。葛城山や大峰山、あるいは岩湧山で修行したと伝えられている。
24:不食(フジキ)では、断食は、月1度実施、それを3年3か月続けると満願になり、その証として供養碑が立てられた。ふる森センターには50基の供養碑が残されている。
25:滝畑の摩崖仏二体のうち、右に彫られているのが観音(カンノン)菩薩である。
26:滝畑湖に出現する景色は、天空に舞う“天女”に、あるいは“昇り龍(リュウ)”にも見える。そこでこの景色を恐竜に例えると“ナガノサウルス・タキハタエンシス”になろうか。
28:江戸時代、滝畑の白(シロ)炭は、その品質の良さから京都の公家や茶人の間で高い評価を得、茶道の普及と共に需要も高まった。そのため元禄6年(1693)、狭山藩は、都での名声を得た白炭を贈答品のみに限定していた。

【ヨコの解説】
 1:“ダイトレ”とは、ダイアモンドトレールの略・通称で、北の屯鶴峯(とんづるぼう)(奈良県香芝市)から二上山、葛城山、金剛山、紀見峠を越え、岩湧山を経て南の槙尾山(和泉市)に至る全長45Kmの金剛葛城山系の稜線を縦走する自然歩道である。
3:光瀧(コウタキ)寺は、施福寺の奥の院で、施福寺の檀家は滝畑にしかいないと言われている。
4:滝畑で発電された電力は“滝畑幹線”略して“瀧幹(タキカン)”によって光滝寺前から滝畑の集落(現湖底)を抜け、日野、高向経由、外環沿いを長野駅前まで送られた。
5:屋根葺き工法の一つ、檜皮(ヒワダ)葺きは、檜の樹皮を重ねて葺く日本独自の技術で、檜皮で葺くと柔らかい曲線が表現でき、河内長野では、長野神社本殿、烏帽子形八幡神社本殿、滝畑の天神社本殿などで見られる。
7:光滝寺の炭焼不動堂に不動(フドウ)明王が祀られている。滝畑は昔から木炭の産地であるが、天慶6年(943)、不動明王は炭焼の翁の姿で現れ、時の住職に白炭の製法を教えたと言い伝えられている。
10:“左近邸の桑(クワ)の木”は、樹齢400~500年の古木で初夏に黒紫色の実をつけ、養蚕に活用されてきた。
11:大峰(オオミネ)山は、修験道の中心的霊場で、平成16年(2004)、「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコの世界遺産に登録された。
13:ふる森センターの鐘楼に“護郷(ゴキョウ)の鐘”がある。この鐘は元禄7年(1694)、当時の庄屋・井谷長左衛門が施主となり、上田村の鋳物師田中喜兵衛らが鋳造、堂村の地蔵堂に寄進したものである。
14:経塚(キョウヅカ)は、葛城修験“葛城二十八宿”と呼ばれる修行の地となった。河内長野の経塚は、第14光滝寺、第15岩湧寺、第16流谷金剛童子、第17天見不動、第18岩瀬経塚山の5か所がある。 
18:八景の一つ・岩湧山の“花ススキ”。茎に神が宿り魔除けの効果があるススキの中に身を沈めると秋が満喫できる。
19:岩湧山の頂上付近は、ススキにあふれ地元の人たちは、この滝畑自治区のカヤ場を“キトラ”呼んでいる。なお“キトラ”は、“東を表している”との説もある。
20:滝畑の摩崖仏を彫ったのは、夏目(ナツメ)庄吉。摩崖仏を彫るため長野駅前の自宅から約10Km離れた滝畑まで自転車で通ったと伝えられている。
22:滝畑湖には毎年多くの渡り鳥がやってくるが、なかでも“オシドリ”は10月下旬飛来、翌年3月初旬まで滞在していて湖面に優美な景色を醸し出している。“新河内長野八景二勝”(平成9年制定)の八景の一つである。
23:普段は穏やかに二筋に分かれて落下する水も、増水時は、荒れ狂う滝となって落下し、まさに荒(アラ)滝に変貌する。
25:茅(カヤ)は、ススキやヨシ、麦わらや稲わらなどの植物性屋根葺き材の総称で、カヤ場では毎年刈り取り、山焼きを行うことによって良質のカヤが育成されている。なお岩湧山の山焼きは春を告げる風物詩になっている  
27:ふる森センターに仏教の聖なる木・菩提樹の葉に似た猪(い)の目(め)型(ハート型)の水穴をした手水鉢がある。愛や恋となると、この手水鉢は“猪の目”型より“ハート”型、あるいは “恋(コイ)の石“と呼んだほうがピッタリする。
28:滝畑には多くの滝が点在し、“滝畑四十八(シジュウハチ)滝”と呼ばれ、“新河内長野八景二勝”(平成9年制定)
の二勝の一つに選ばれている。修験道の開祖役行者は、これらの滝で修行したと伝わる。
29:西国丗三ヶ所観音巡礼の第4番札所・槙尾(マキノオ)山は、役行者や空海が修行したと伝わる。マキノオとは、役行者が書写した経典を最後に埋めたのがこの山だったことから“巻尾”の名が付いたとの地名起源伝承がある。
30:棟札によると天(テン)神社は、室町時代初めの創建。明治5年に現社名に改称された。
31:修験(シュゲン)道は、日本古来の呪術的山岳信仰と仏教の密教的信仰とが一体となったもので、奈良時代の役小角を祖とする。修験者は大峯山や葛城山などの霊山を行脚し修行している。

【解答欄】秘境の湖
滝 畑
A B C D E F G H I
ヒ キ ヨ ウ ノ ミ ズ ウ ミ

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