葉隠の美

“葉隠の花”を詠んだ歌は10首ほどあるようであるが、このうち“葉隠”と“恋”とを絡めて詠んだ歌は、数首しか知らない。そのうちでも西行が詠った“忍ぶ恋”の歌が私は最も好きである。

葉隠に 散りとどまれる 花のみぞ 忍びし人に 逢ふ心地する

「葉蔭に散らずに残っている花を見つけた時、ズーとお逢いしたいと恋心を忍ばせてきた貴女に会ったような気がします」と。

葉隠の美私は、西行が詠ったこのような控えめな花の姿に心が動かされる。華やかに咲く花、光を浴びて輝く花、人々が愛でる花も素晴らしいが、葉の蔭で散ることもなくじっと静かに咲いている控えめな花。
そのような花に、私は心ときめく。たった一輪の花、それが葉陰に残っていることを知った時の喜び。それが、“葉隠の美”なのである。

美術の世界においても、あまり目立たないものがある。
しかもそのようなものは、何時までたっても脇役に過ぎず、常日頃は心にも留められないが、無ければ絵にならないし、様にもならない。あって初めて完成した美になるものである。
しかしながら、それらは二流でもなければ三流でもないし、控え目であっても、そのものの価値が低いわけではない。
それらの作品は、制作過程で手が抜かれたり、いい加減に作られたとは決して思われないほどの品格がある。
葉隠の美むしろ先人たちは、そのようものを創作することに心魂を注ぎ、腕を揮い惜しみない敬意も払ってきた。だからこそ我々は、今だにそこに“捨て難い美”を見出すのである。
私もまた、そのようなものに“捨て難い魅力”を感じ“価値”も認識する。
そして私は、そのような美に“美の主役”に勝るとも劣らない素晴らしさを感じる。
 
言うなれば、それらは、“主役の美”ではない“控え目な美”、“脇役の美”、“目立たない美”であるが、これこそが、美術の世界における“葉隠の美”なのである。
“葉隠の美”とは、そのような美なのである。     
        
(横山 豊)