金剛寺奥殿の欄間、座敷に映える【葉隠の美】

河内長野の南西に「女人高野」とも「天野行宮」とも称される名刹・天野山金剛寺がある。
当寺の奥殿は、元々観蔵院が建っていた所で、ここは南北朝時代、北朝の光厳、光明、崇光の三上皇が約三年間、御座所としていたところでもある。
しかしながら、観蔵院もすでに無く、現在の建物は、大正三年(1914)、皇族の宿舎として建立されたもので、奥殿と呼ばれている。

欄間この奥殿の欄間(らんま)に多くの透かし彫りが見られる。
欄間は、座敷と座敷や部屋と廊下、廊下と屋外の間などで、天井と鴨居(かもい)との間に装飾や採光、通風を目的に透かし彫りなどが施された板や障子をはめ込んだものである。
欄間は奈良時代に寺社で採光を目的に用いられていたようであるが、平安貴族の屋敷を経て、江戸時代には一般の住居でも楽しまれるようになった。特に桃山時代には、絢爛(けんらん)豪華な欄間が造られた。そのため欄間は、江戸期になると採光や通風などの実用性よりも、むしろ室内装飾の機能が重視されるようになっていった。

欄間昔、中国では来客を接待する時、蘭の香りを天井近くの隙間から隣室に漂わせて客をもてなしたとのことで、その「蘭」の香りを送り出す隙「間」ということで、「蘭間(ランま)」と呼ばれたことに由来するという語源説があるが、真偽のほどは知らない。

金剛寺の奥殿は、建築された時代にも関わらず、ここには絢爛豪華な雰囲気は全くない。むしろ質素という方が当てはまっている。
ここに穿たれた透かし彫りは、座敷では菊と五七の桐紋とを重ねたものを初め、菊紋、五七の桐紋、瓢箪紋など四種類ある。また廊下には、月輪紋や瓢箪紋、扇紋など七種類の紋が見られ、それらのいずれもが格調高く散りばめられている。

興味深いことは、座敷の欄間には、菊紋と五七の桐紋とが重ねて彫られていたり、五七の桐紋や瓢箪紋が単独で彫られているが、これらの紋は多分に豊臣家に縁のある紋であるが、なぜここで彫られているのか、その理由を知らない。

欄間

ところでここは、寺院であるにもかかわらず、奥殿からは仏教的な抹香臭さなどは全くないし、眼前の庭からも宗教的な雰囲気を全く感じられない。ここには宗教的な香りは一切なく、あるのはただ静寂のみである。
そして雨戸や障子を開け放つと落ち着いた明るさが訪れ、欄間に穿たれた透かし彫りが一段と映える。そしてこの時、明暗を巧みに取り入れてデザインした宮彫師(みやぼりし)たちが“欄間の芸術家”と呼ばれる瞬間であるのかも知れない。

横山 豊