ずーと昔から、それこそ子供の頃からお城が好きだった。
そして40年以上も昔のことであるが、当時、和歌山城に凝っていた。この城は、大天守、小天守さらに台所櫓や乾櫓などが天守閣群を構成している。この当時まで、このような天守閣群をもつ城を見たことがなかったので、非常に新鮮に感じたことを覚えている。
そのため、このお城の模型を作ってみたいと、櫓に“爪楊枝(つまようじ)”、石垣に“割箸(わりばし)”を使って製作に取り掛かった。
しかしながら、この城で唯一、私が作れなかったのが天守閣の屋根に載せている鯱(しゃち)であった。そこで父の友人にお願いして鯱を作ってもらったが、これが現在、模型の天守閣に載せている鯱である。
鯱は、一般的には城郭の棟飾りとして天守を初め、いろいろな櫓の両端に取り付けられてきた。
鯱は、“鯱“という文字が示すように、姿は魚であるが、頭は虎、背中に鋭いトゲを持ち、尾ひれは、ピント跳ね上げて孤を描き、空を向いて反り返っている。そして口を大きく開き、目を輝かせている。鯨を倒し、波を起こして雨を降らせ、口から水を吹くという想像上の怪魚、あるいは海獣である。
そのため火除けの守り神として、城郭では大棟に掲げられてきた。なお鯱は、寺院の屋根に飾られている鴟尾(しび)が変形・発展して今の形になったと考えられている。
鯱(しゃち)は、屋根の先端に掲げられているが、もし大棟に鯱や鴟尾(しび)、あるいは鬼瓦がなければ、建物全体に締まりが無くなり、威厳もなくなって、全く様にならない。しかも無いと両肩が下がり建物全体がダラケた姿になる。あってこそ初めて建物に落ち着きが見られるのである。
城郭では、鯱が掲げられた櫓はごく普通であるが、寺院での鯱の使用例を全く知らない。延命寺で初めて鯱が掲げられた建物を見た。寺院なら鴟尾や鬼瓦が一般的であるが、当寺でなぜ鯱が掲げられたのであろうか。
考えられる理由として、鬼瓦なら単に宝物が盗られないように睨みを利かすだけであるが、鯱を掲げることによって火災予防の願いを込めたのではないか。この宝物館は、土壁の上に漆喰を塗り込めた“土蔵造り”となっているが、これは城郭の“櫓”と同じ壁構造である。
壁をこのような耐火構造にしたことは、当寺の宝物を火災から護りぬきたいとの強い意志があったからと考えられ、それが鯱が掲げられた動機であったと推察される。
もっとも、この理由を当寺に問い合わせたわけではないが・・・
ところで当寺の鯱は、雌雄一対で掲げられ、左が阿形(あぎょう)で少し大きい雄、右が吽形(うんぎょう)で少し小さい雌のようである。
横山 豊