南海・三日市町駅から府道209号線を観心寺の方に進む。葛の口を過ぎ、さらに500mほど行くと信号がある。ここから旧道に入る。そして国道310号線との合流地そばの左の民家の横を登る。
階段状の道が頂上まで続いている。登りきると柵に囲まれた塚がある。塚の名は、「檜尾塚(ひのおづか)」と言い、「檜尾塚陵墓参考地」との立札が立っている。
大木に囲まれた塚上に宝筐印塔が1基ある。
塔身には、金剛界の四仏(しぶつ)、いわゆる東方の阿閦(あしゅく)、西方の阿弥陀、南方の宝生、北方の不空成就(ふくうじょうじゅ)の種子(しゅじ)が刻まれていると聞く。
この宝筐印塔の隅飾りが立ちあがっているので、形式的には古そうであるが、全体から受ける印象は比較的新しい。
この塚の被葬者は比定されていないが、長慶(ちょうけい)天皇ではないかとの伝承があり、「陵墓参考地」として宮内庁の管理になっている。
長慶天皇について興味深いことが二つある。
まず第1は、在位の有無である。
この天皇は後醍醐の孫、後村上の第一皇子になるが、大正15年(1926)になって初めて、皇統に列し、南朝3代目の、そしてまた第98代天皇として公認された。
しかし、明治44年(1911)3月、明治天皇が南朝を正統とする勅裁を下した時も、この天皇の在位は認定されず、そのため天皇として認められていなかった。長慶は、北朝に対して強硬派であったため、和睦交渉は決裂したままであったが、この長慶の皇弟の後亀山(第99代天皇)は、講和派であったので、南北の和睦が成立、その後、南北の両朝が合体したことは歴史の示すところである。
第2は、陵墓の所在地である。
長慶帝の陵墓は、昭和19年、京都市右京区の嵯峨東陵(さがの ひがしの みささぎ)に比定された。
陵墓選定にあたり、宮内庁は全国的に調査をしたようであるが、陵墓を確定するには至らなかった。結局、長慶帝との縁の有無が決め手になったようである。しかしながら天皇の晩年の動向や事跡を示す資料がないため、現在でも確定できていない。
そのため長慶陵と称される墳墓は、全国各地に点在し、遠く青森県から鳥取県、さらに愛媛県に至る20数カ所に及んでいる。
河内長野では、この檜尾塚だけでなく、鳩原(はとのはら)の川上神社の境内の裏に高さ約2m、直径約5mの石塚があり、この塚も長慶の陵墓ではないかとの言い伝えが残されている。
それにしても、宮内庁の陵墓参考地の多いこと。
陵墓として比定できなければ、しなくても良い。出来もしないこと、やる気もないことに時間や経費をかける必要性など全くない。実在もしない神武の陵墓を比定しているが、そのような「比定をすることが可笑しい」とは思わないほど「宮内庁のレベルは低い」と我々は、認識すべきである。
また宮内庁管理地といっても法的には何の根拠もない。
従って、宮内庁が「立入禁止」の立札を立てること自体、「違法行為」なのである。さらに宮内庁が自らの違法行為を一方的に国民に押し付けていることは、大いに問題があり、そのような行為は、国民にとって迷惑以外の何物でもない。にも拘わらず「○○せぬこと」と命令調で記載している。国民へお願いすべきこと、との意識は全くない。宮内庁は、このような実態を、少しは認識しているのであろうか。いくらレベルが低くても。
全く不愉快であり不可解な行為である。(H26・3・10 散策)
(野寄史郎)