愛しの“たし”さん/烏帽子形城のお姫様(中)!!浮世絵の創始者・岩佐又兵衛の母

“たし”の出自について、『立入左京亮宗継入道隆佐記』には、「大坂にて川那う左衛門尉と申す女」とあり、石山本願寺に仕えた川那部氏の女では、といった説もある。
なお、宣教師は、“たし”さんのことを、「永遠の懲罰も來世の栄光も知らぬ異教徒として(以下略)」と記しており、“たし”さんを“キリシタン”ではなく、“異教徒(仏教徒)”と認識していたようである。
しかし江戸幕府が編纂した諸大名や旗本などの家譜集『寛永諸家系図伝(かんえい しょかけいずでん)』(1641~44成立)では、この“たし”さん、烏帽子形城の城主・碓井因幡守定仙(うすい いなばのかみ  じょうせん)の女(むすめ)との記述がある。

このように戦国時代の美人の一人が我が町・河内長野の烏帽子形城(えぼしかたじょう)のご出身なのである。

ところで有岡城落城時、一人の幼児が乳母の手によって城を脱出、本願寺に匿われて成長し、姓を“岩佐”、名を“又兵衛勝以“と名乗った。そして土佐派の絵を学び、江戸初期、独自の風俗画を始め、人物画の画風を作り、俗に“浮世又兵衛”と称され、“浮世絵の始祖“とされるのが、岩佐又兵衛勝以(いわさ またべい かつもち)である。

この又兵衛のご生母こそ、“ たし(だし)”さんと言われ、又兵衛は摂津伊丹 有岡城城主 荒木村重の子と考えられている。
そして『信長公記』は、“たし”について次のようにも記している。

荒木をもうらみず、先世(せんぜ)の因果、浅ましきとばかりにて、
たし、歌あまた読み置き候。

(意訳)たしは、荒木村重を恨みもせず、前世からの因果応報、思いがけないことで驚きあきれているばかりだが、和歌をたくさん詠んでいた。
とあり、次の辞世の句を残している。

残しをく そのみどり子の 心こそ おもひやられて かなしかりけり
のこし置 そのみどり子の 心こそ すて置し身の さはりともなれ
みがくべき 心の月の くもらねば ひかりとともに にしへこそ行
木末より あだにちりにし 桜花 さかりもなくて あらしこそふけ

なお、このみどり子こそ、後の“岩佐又兵衛”だったのではないだろうか。

ところで烏帽子形城ご出身の“たし(だし)”さんが、評判の美人であったことにちなみ、現代の「“たし”美少女コンテスト」を毎年、烏帽子形城跡で開催してはいかがであろうか。参加者は勿論、女子中高生であることは言うまでもないが・・・。そして多くの人たちが当城を訪れ、城跡への理解を深めてもらうと共に、皆んなで楽しめるコンテストが企画できないものであろうか。そうすれば、河内長野にとって大きな観光資源になると思われるが・・・。

奥河内の閑適庵隠居  横山 豊

(筆者注)画像 伝岩佐又兵衛(自画像)MOA美術館所蔵より

愛しの“たし”さん(上)聞こへ有る美人
愛しの“たし”さん(下)萌えキャラに!!