河内 烏帽子形城 探訪記⑩城地の呼称の統一

第三は、呼称の統一。
烏帽子形城探訪記10現在「主郭」には「本丸」と、また「腰曲輪」には「こなら広場」と明示された標柱が立っている。
中世・戦国時代の城郭遺跡に使われる主郭や堀切などの「学術上の呼称」を明記した標柱を立てるべきである。
「本丸」など、近世の城郭で使われる呼称などが書かれた標柱が立っていて、どうして戦国期の山城を認識し、体感できるであろうか。

第四は、散策路の明示。
中世・戦国期の山城として、烏帽子形城はその学術的価値が認められ「国の史跡」に指定された。
我々はこの烏帽子形城を散策することによって、山城の構造や先人の知恵や工夫の足跡を知り、この城の素晴らしさを認識できるのである。
当城でそれらが体感できる場所は、「主郭、腰曲輪、土塁、横掘、竪堀、堀切、切岸」と「枡形、虎口」、さらに「堀内障壁」や「堀幅の広狭、高低差」などである。
従って、これらの遺構が体感できるように、さらに言えば、この烏帽子形城を散策する時、同じ場所を二度散策しないように一筆書きで巡回できるルートを策定すべきである。
なお、添付の散策ルート「大手道コース」「神社・古墳コース」は、その参考例である。

烏帽子形城探訪記10

第五は、個別遺構の説明板の設置。
当城を散策していて、最も難しいことは、「現在、自分が居る場所が判らない、特定できない」ことである。そのため当城を見学しようと思えば、当城を良く知っている人に案内してもらわないと、自らの立ち位置すら判らず、そのため当城の素晴らしさを何ら体感せず、また中世の城の面白さを理解することもなく、当城から下りてしまっていることである。
そのため、せっかく戦国期の城である烏帽子形城を散策しても、当城は「つまらない城」と認識させてしまはないだろうか。この素晴らしい城をそんな風に認識させてはいけない。
そこで(1)各遺構に「名称」を付け(縄張図参照)、(2)遺構ごとに説明板を立て、(3)説明版の表に「遺構名」を、例えば「東外堀」など、そして裏に「縄張図全体における現在地の明示」をすべきである。
この説明板が無ければ、単に城山に登ってきただけで、当烏帽子形城の素晴らしさも戦国期の山城の遺構も体感できないと考える。

烏帽子形城探訪記10

第六は、城跡からの展望。
現在、烏帽子形山全体に樹木が生い茂っているが、その樹木によって城内の遺構が遮蔽されているとは思えない。むしろ今でも、遺構は良く見え認識できる。
従って、城内での樹木の伐採は全く必要ない。「整備」と言う名の下での「破壊」は御免蒙りたい。
むしろ当城からの展望の悪さが問題である。
そこで古墳広場の東北部の樹木を伐採し、烏帽子形城と攻防を繰り返した金胎寺城跡や嶽山城跡(龍泉寺城跡)が望めるようにすべきである。
伐採することによって、烏帽子形城の戦略的立地や当城を巡る中世世界が把握できると考える。

このように烏帽子形城には、まだまだ解決しなければならない問題がたくさんある。そしてそれを解決するためには時間がかかる。やはり「未来は、ためらいながら近づいて来る」のであろう。
しかし我々は、それまでの間、ジッと待っていないで、この城に足を運んで戦国期の城郭を肌で感じ、楽しもうではありませんか。
石垣と櫓を伴った近世の城ではない、それとは少し違った戦国期の城郭の素晴らしさを味わいませんか。 戦国期の城郭などメッタニ見れるものではありません。しかもその城がすぐそこにあるのです。 国宝と言っても良い戦国期の城郭が、すぐそばにあるのです。(完)
(H25・12・11 探訪)
横山 豊

河内 烏帽子形城 探訪記(その1)
河内 烏帽子形城 探訪記(その2)
河内 烏帽子形城 探訪記(その3)
河内 烏帽子形城 探訪記(その4)
河内 烏帽子形城 探訪記(その5)
河内 烏帽子形城 探訪記(その6)
河内 烏帽子形城 探訪記(その7)
河内 烏帽子形城 探訪記(その8)
河内 烏帽子形城 探訪記(その9)
河内 烏帽子形城 探訪記(その10)