当烏帽子形城で特筆すべきことは、この城が今から430年前、豊臣秀吉の紀州平定のために構築された城であるということである。
戦国武将、特に信長や秀吉にとって、各地を支配する武将や農民もさることながら、最大の敵は仏教勢力であった。
織田信長は、一向宗との戦いに明け暮れたし、また天台宗の総本山・比叡山を焼き討ちすることによって、僧兵の撲滅と僧侶の武装解除をした。信長の一生は宗教戦争であったと言っても過言ではない。そしてそれを引き継いだ秀吉もまた宗教戦争に明け暮れた。
この烏帽子形城を構築することによって高野山からの兵を押さえ、根来(ねごろ)、雑賀(さいが)と対峙した。そして真言宗の総本山・高野山が秀吉の軍門に下ることによって、日本では、宗教者が武力をもつ時代が終焉した。
遠く平安時代、白河法皇は、自らの意のままにならないもの(天下の三不如意)として「鴨川の流れ(賀茂川の水)と双六の賽の目」そして「山法師(比叡山の僧兵)」と言った。
今、秀吉によりあらゆる宗教勢力の武装解除が行われた。そして江戸時代になると、各寺院は江戸幕府の寺社奉行の支配下に組み込まれていく。
この烏帽子形城こそ、日本の中世を終わらせ、近世の扉を開く基となった城なのである。日本の近世は、この烏帽子形城から始まったと言っても過言ではない。
大阪府下で「国の史跡」に指定された城郭は、5つしかない。
その筆頭は大坂城であるが、残りの4城はいずれも奥河内の千早赤阪村と河内長野市にある。
千早赤阪村では、戦前の皇国史観華やかし昭和9年に指定された「千早城・上赤坂城・下赤坂城」の3城あるが、それから78年ぶりの平成24年(2012)、河内長野市で烏帽子形城が国の史跡に指定された。
文化財には、「国宝」に始まり「重要文化財」などもあるが、これらはいずれも動かせるものである。
奈良の大仏はトレーラーに載せて運べるし、姫路城も解体して運び、別の場所で組み立てることができる。当然のことながら、甲冑や刀剣、あるいは絵巻などの絵画も、要は運んで行けるものは全て国宝とか、重文とか呼ばれる。
しかし「史跡が立地している土地」は、切り離して運べない。従って、「史跡が立地している土地」は「国の史跡」と呼ばれるが、「国宝の土地」と言い換えることもできる。
河内長野市では、観心寺や金剛寺の境内がそれぞれ国の史跡に指定されているが、烏帽子形城の指定により、国の史跡は3件になった。
ところで烏帽子形城は、日本城郭協会が選んだ「日本100名城」には、入っていない。当城を管理する行政は、当然のことながら認定されるように努力すべきである。
世界遺産の指定でも同じであろうが、こちらから動かなければ登録などされるものではない。登録は待っていてもダメ。登録への積極的な行動が望まれる。(H25・12・11 探訪)
横山 豊
河内 烏帽子形城 探訪記(その1)
河内 烏帽子形城 探訪記(その2)
河内 烏帽子形城 探訪記(その3)
河内 烏帽子形城 探訪記(その4)
河内 烏帽子形城 探訪記(その5)
河内 烏帽子形城 探訪記(その6)
河内 烏帽子形城 探訪記(その7)
河内 烏帽子形城 探訪記(その8)
河内 烏帽子形城 探訪記(その9)
河内 烏帽子形城 探訪記(その10)