烏帽子形城の御城印・武将印

“御城印(ごじょういん)”というものがある。
初めて御城印が発行されたのは、平成2年(1990)頃、信州の松本城と言われている。そして
現在では、およそ500以上のお城で1500枚ほど発行されているとのことである。
ところで御朱印は、寺社への“参拝・参詣の証し”として頂いているが、御城印は、“登城、登閣の記念品・スタンプ”のようなものとして捉えられている。

そこでわが烏帽子形城でも“御城印”を創作しようと思うが、それにはまず烏帽子形城の歴史などをよく理解しておくことが重要と考える。
【城史】
(1)当城が歴史上、初めて登場するのは、文正(ぶんしょう)元年(1466)「押子形城(おしこがたじょう)」としてであるが、大永(だいえい)4年(1524)には、「エホシカタ」との記述が文献に現れる。
(2)烏帽子形城は、室町時代を通じて河内守護職・畠山氏の城であった。そしてこの城を巡って
しばしば畠山氏のお家騒動の合戦の舞台になった。
(3)ルイス・フロイスの『日本史』、天正9年(1581)の項に「その城(烏帽子形城)は、三人の殿によって管理されており、そのうちの二人はキリシタン」と、また別の南蛮資料では「周囲に在る多数の村に約三百人のキリシタンがいる」との記述もあり、この当時、河内長野は、キリシタンの町であった。そしてそれを証するように、市内には数体のマリア像や耶蘇地蔵、クルスの台座、十三仏碑など、キリシタン遺物が残されている。
(4)天正12年(1584)、豊臣秀吉は、岸和田城主・中村一氏(かずうじ)に命じ、根来攻めの後方支援基地として烏帽子形城を改修させると共に、高野山にも対峙、そして翌13年、秀吉は紀州を平定した。現在、我々が見る烏帽子形城は、この時秀吉の命で中村一氏が改修した城の姿である。
そしてこの時、日本では、宗教勢力の武装解除が行われ、宗教者が武力を持つ時代が終焉した。
烏帽子形城の構築こそ、日本の中世を終わらせ近世の扉を開く基となったもので、日本の近世は、この烏帽子形城から始まったと言っても過言ではない。

【織豊系城郭】
一般的に日本の近世の城郭は、天正4年(1576)、織田信長が築いた安土城に始まる。
この信長と秀吉に始まる城郭を「織豊系城郭」と呼び、「石垣の構築」「礎石建物」「瓦の使用」がその三要素である。
烏帽子形城は、織豊系城郭の二要素(礎石建物、瓦葺)を備えている。従って、当城は、中世・
戦国期の城郭から近世(織豊系)城郭へと発展していく過渡期の特徴が見られ、当城は日本の城郭
構造の発展過程を知る上で極めて貴重な遺構である。

【ゆかりの人たち】
(1)キリシタン領主の伊智地(いぢち)文太夫(ぶんだゆう)は、ルイス・フロイスの『日本史』に登場する“三人の殿”のうちの一人であるが、秀吉のキリシタン禁制により当城を追放された。
(2)中村一氏は、和泉国岸和田(3万石)の城主で豊臣秀吉の三中老の一人。天正13年(1585)、近江国水口岡山(6万石)の城主、天正18年(1590)、駿河国駿河(14万石)の、
そして関ヶ原の戦いの後の慶長5年(1600)には、中村家は、伯耆国米子(17万5千石)の国持ち大名に出世している。
(3)ところでこの城には、楠公築城伝承もあるが、それを立証する「遺物」も「文献」もなく、
さらに「城地の高さ」などから推して楠公築城説は、歴史的事実とは考えられていない。考古学的にも、歴史学的にも楠公築城説は否定されている。ちなみにこの説は、大正時代に捏造された説で、楠公築城説は歴史の妄想に過ぎない。

【国史跡指定】
平成24年(2012)1月、当城は“国の史跡”に指定された。中世の山城が“国の史跡”に
指定されたのは、昭和9年以来78年ぶりである。
当城は、多くの文献に登場し、キリシタンとの関連も明確、さらに土塁や多くの横堀が存在し、
しかもそれらの遺存状態が極めて良い。そして礎石建物や瓦葺き建物など織豊系城郭への過渡期の城の姿が見られることから“国の史跡”に指定されたと考えられる。
ちなみに大阪府下での中世山城の国史跡指定の城郭は、5城(烏帽子形城、千早城、下赤坂城、
上赤坂城、飯盛城)のみである。

【日本遺産】
令和元年5月、当城は“日本遺産~中世に出逢えるまち~”の構成文化財の一つとして認定された。この日本遺産は、河内長野市単独でストーリーが完結する「地域型」の日本遺産で、天野山金剛寺や観心寺、あるいは高野街道などが、その構成文化財になっている。

【御城印 作成の考え方】
600年近い歴史をもち、多くのゆかりの人々に彩られ、さらに史跡に指定されている烏帽子形城。
これらを踏まえ、わが烏帽子形城の“御城印”について考えてみた。
(1)まず“登城”とするか、それとも“登閣”と記すかであるが、烏帽子形城には、天守閣も櫓も
無いので御城印の表題は“登城記念”とする。
(2)次に、御城印には、それぞれの城郭の特徴が記されていることが多い。
例えば“国宝”や“重文”だけでなく、“日本百名城”、“〇〇三大名城”“□□三大山城”等など、各城郭の特徴や知ってほしいこと、見どころなどが記されている。なお“国指定史跡”と記している御城印は多いが、“百名城”と記している城は少ない。
そこで烏帽子形城の特徴として、
① 烏帽子形城が“国の史跡”に指定されたことは、当城が“国宝”に相当する価値があり、当城の歴史上の重要性を示すものとして特筆すべきことである。御城印には“国史跡”は、ぜひ記すべきと考える。
② 烏帽子形城は、単に河内長野の“中世終焉の城“だけでなく、“日本の中世終焉の城”でもあ
る。そして令和元年、当城は文化庁が定める“日本遺産 ~中世に出逢えるまち~”の構成
文化財の一つに認定された。全国に多くの城郭があっても日本遺産に認定されている城は、
おそらく“烏帽子形城”だけであろう。“日本遺産”も重要な特徴である。
③ 当城はキリシタンに関連する城で、キリシタンのことは遠くローマにも報告されている。戦国時代、烏帽子形城は“キリシタンの城”であった。これも御城印には記したい。
(3)城名は“〇〇城”だけでなく、“□□城跡”と記した御城印もあるようであるが、烏帽子形城では、“□□城跡”とせず、“烏帽子形城”と中央に城名を大きく記載したい。
(4)そして烏帽子形城と記した右上には国名“河内”を記す。
当城は大坂城や姫路城のように有名な城ではない。そのため城の所在地を記していないと、当城がどこにあるのか認識してもらえない。“河内国”では少し大袈裟だし、“大阪府”ではスッキリしない。ここはやはり“河内”にすべきと考える。
(5)“登城日”。登城日が記されていると後日、何時登城したのか分かりやすく便利であるだけでなく、楽しい思い出も同時に蘇ってくるであろう。
(6)御城印では、歴代城主やその城にゆかりのある武将の家紋や花押などがデザインされている。しかし当城では畠山氏や伊智地文太夫、碓井因幡守、甲斐荘氏などゆかりの城主や武将の家紋などは描かず、当城を構築した中村一氏の家紋“沢瀉(おもだか)”のみを朱で描きたい。

【複数枚の発行】
城によっては、御城印は1枚だけでなく、2枚も3枚も発行している所もあれば、期間限定の御城印もある。そこで烏帽子形城でももう1枚考えてみたい。
2枚目の御城印は、マリア像や十字架をあしらい“キリシタンの城”と記し、当城の特異性もアピールしたい。烏帽子形城の素晴らしい2枚目の御城印になりそうである。

【武将印 作成の考え方】
烏帽子形城ゆかりの武将は、多いが、国史跡、日本遺産に認定されるほどの城郭を構築したのは、中村一氏である。そして一氏は、岸和田3万石から駿河14万石へと出世していった大名でもある。烏帽子形城の武将印は、一氏とする。
武将印では、一氏が烏帽子城に関係があることを示すために“河内 烏帽子形城”と、また豊臣秀吉の三中老であったことも記し、一氏の家紋“沢瀉(おもだか)”を描く。そして中央に“中村一氏”と大きく墨書する。

烏帽子形城の御城印を入手することによって、「烏帽子形城のフアンになった」、「烏帽子形城の重要性がよく解った」「友達にも烏帽子形城の素晴らしさを話したい」、あるいは「烏帽子形城だけでなく河内長野をもっと知りたい」等など、当市のシンパが増えることを期待したいものである。
あるいは中村一氏“ゆかりの城”を巡り御城印を増やしていくのも楽しい城巡りになるのではないだろうか。さらにゆかりのお城で一氏の“武将印”なども準備されていると“御城印巡り”はモットもっと楽しいものになると信じている

烏帽子形城 御城印・武将印

  (左)・(中央)“烏帽子形城”御城印 (右)“中村一氏”武将印

烏帽子形城の御城印・武将印3種は、
河内長野市 観光案内所(南海・河内長野駅前)にて販売しています。

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中村一氏”武将印 詳しくはこちら→

R5(‘23)・3・3  横山 豊