主郭は、草が生い茂り杉の林となっていて視界はまったくきかない。石仏城と確認できても、写真にもならない。文化財であるのだから、せめて雑木と草ぐらいは刈って欲しいものである。
当城は元弘三年(1333)、楠木正成の築城と伝えるが詳細は不詳。
地理的には、城跡の東足下を天見川が流れ、両側から山が迫り出してきた一番狭い所をこの天見川と高野街道が走っている。石仏城は、まさに、この街道を押さえるために構築された城と言える。
城地は、最高峰の石仏山の少し低い所で、しかも街道が見下ろせる一番東の、ここしかないと思われる所に城は築かれている。そしてこの城跡の高さこそ中世の城の高さなのである。
主郭は2段で構成されており、主郭の上段の西と北には土塁を構築して西北の防備を固め、さらに主郭を取り囲むように帯曲輪を配置している。そして曲輪との間には、尾根を削り堀切状の地形を構築している。曲輪はかなり広い。また曲輪の北の尾根には、三段ほどの小規模な曲輪が、また西北の尾根には小さな堀切が設けられ、さらに西の尾根には小さな曲輪が連続して設けられていたようであるが削平も甘くあまり明瞭ではない。
当城の主郭と曲輪を十分確認したあと、来た時と同じ道を辿り下山していく。これから登城して来る人たちや我々が再度来る時のために、各所に目印の赤いテープを巻いていく。
城跡と石仏山との鞍部から山を左にみて高度を下げていく。しばらく行くと高圧線の鉄塔下に着く。
ここからさらに降りてゆくと石仏寺そばの民家K邸前の国道371号線に降りてきた。
これから左近城へ登るのであるが、もう一度、惣代(そしろ)の棚田のところまで戻らなければならない。戻るには、林道・馬ヶ谷線を登って行く案とセノ谷道に入って行く案とが考えられるが、今回はセノ谷道を登り、途中から惣代に行くことにした。
この惣代へのセノ谷道もかなりキツイ。石仏城跡に登った後であるから余計に厳しい。何とか峠にたどり着きT邸の方に向かって下って行く。やがて鳳凰の松が見える棚田に出てきた。
ここからT邸前を通り左近城に登る。
昨年の夏、登城を試みようとしたがあまりにも草が生い茂っており、またこの状態がズーと続いているのなら、登城は無理だと諦めた。当城のような中世の城は、やはり冬場に限ると断念した。
従って、今回はどうしても登ってみたい。期待も膨らむ。
猪垣(ししがき)を越え山に入る。草はあまり繁っておらず、猪垣から10m程度で、あとは杉林の中を進む。
このような状態なら無理をすれば昨年の夏でも行けたと悔やまれる。残念!!
馬の背の道をどんどん登って行く。やがて頂上にたどり着いた。
ここは経塚があってもおかしくないような地形をしている。前方後円墳の前方部を登り、さらに後円部を登るような地形である。従って、頂上は山の中に丸い台地が飛び出たような形をしている。
そして北の谷を挟んで石仏城が、そして東は谷、西は棚田が広がり周囲を山に囲まれた独立峰となっている。
頂上に瓦製の祠らしきものがあり「天照皇太神宮」と刻まれている。この城は食糧の貯蔵や村人の逃げ城であったとも伝えられている。
朝の9時30分に南海・美加の台駅を出発し、同駅に16時20分に帰ってきた。7時間、10.2Km歩いた。時間的にもかなり強行であった。しかし有意義な一日でもあった。
快い疲れが残ったが、これから好例の新年会を行う予定である。そして、初登城の成功を祝って美酒に酔いたいものである。(H26・1・7 探検)
横山 豊
奥河内 石仏城 探検記(その1)登城道の探索
奥河内 石仏城 探検記(その2)主郭と左近城の探索
奥河内 石仏城 探検記(その3)新登城ルートの開拓
奥河内 石仏城 探検記(その4)主郭の構造
奥河内 石仏城 探検記(その5)登城ルートの発見