高向玄理(下)“大志を抱いて決死の渡海、望郷の人たち!!”

遣隋使や遣唐使として多くの若者が海を渡った。
遣隋使は、聖徳太子が隋に派遣した使節で、第1回は推古15年(607)、小野妹子を正史に対等外交の国書『日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや・・・』を隋の皇帝に贈ったことは有名である。
翌16年(608)の第2回目も再び妹子が『東天皇、敬んで西の皇帝にもうす・・・』との国書を贈っている。この時高向玄理や僧・旻、南淵請安ら8名が妹子に同行し留学した。
遣唐使も奈良・平安時代に唐に派遣された使節で、文物や政治制度など最新の知識の摂取がその目的の第一であった。そしてこれらの導入が大化の改新の要因になったと考えられている。

ところで遣唐使は、欽明2年(630)の第1回から寛平6年(894)まで15回実施され、盛時には500人が派遣されたようであるが、留学生は、中国文化に馴染み深く言語の通じる渡来系氏族の子弟が選ばれることが多かった。全長30m、幅7mのジャンク船に竹を編んだ帆を掛けるだけで、気象の予知もできず、しかも未熟な航海技術で大海に乗り出していった。現代の宇宙飛行に例えると、太陽系惑星外へ飛び立つような旅だったのかもしれない。

このように厳しい旅だったが、多くの留学生が海を渡った。しかしそのうちのどれだけの人たちが帰国できたのであろうか。
運よく帰ってこられた人には、空海や最澄、あるいはのちに右大臣まで上り詰めた吉備真備(きびのまきび)などがいる。
また南淵請安(みなみぶちしょうあん)は、帰国後、当時の都・飛鳥板蓋宮(あすか いたぶきのみや)付近に学堂を建て貴族の子弟を教育したが、その受講生の中に中大兄皇子や中臣鎌足らがいた。
なお請安は、その生涯を日本で終わり大和国高市郡南淵(現・奈良県明日香村稲淵)に眠っている。

留学生たちは、命がけで海を渡ったが運悪く帰れなかった名もなき若者も大勢いたのであろう。
そのうちでも阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)や井真成(いのまなり)のように帰国できなかったが、名を遺した人もいる。
そしてまた高向玄理のように一度は帰国したが再度渡海し、ついに帰ることもなくかの地でその生涯を終えた人もいる。

阿倍仲麻呂(701~770)は、霊亀2年(716)に留学生として入唐し、唐朝に仕え天平勝宝4年(752)に帰国しようとしたが果たせず、長安で没した。
『百人一首』には、望郷を詠んだ有名な歌が残されている。
天の原 振りさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも
そして我々は、この望郷の歌にいつも心打たれる。

そしてまた井真成(い の まなり/せい しんせい)は、最近までその存在を全く知られていないし、日本名も不明であるが、中国の西安で碁盤ほどの大きさの墓誌が見つかった。

墓碑は、全文12行、171文字が刻まれ、そこには日本人の留学生の井真成が唐暦:開元22年(和暦:天平6年・734)に亡くなったので「尚衣奉御(しょういほうぎょ)」の官職を追贈されたこと、そして真成の故国は日本であると記されている。なお国名まで刻まれていることに興味を覚える。

贈、尚衣奉御 姓は井、字(あざな)は真成。国は日本と号す。生まれつき優秀で、国命で遠くやってきて、一生懸命努力した。(中略)急に病気になり開元22年に亡くなった。皇帝は大変残念に思い、特別な扱いで埋葬することにした。体は、この地に埋葬されたが、魂は故郷に帰ることをこい願う。

このように墓誌には、望郷の念にかられながら、その夢を果たすことなく異国で散った真成の思いに寄り添い「形は既に異土に埋むるとも、魂は故郷に帰らんことを庶(こいねが)ふ」と刻まれている。

井真成は、姓を日本名から中国風の一字姓に省略し、「井」と名乗っていたと考えられ、そのため真成は渡来系の「井上(いのへ)氏」や「葛井(ふじい)氏」の一族と推察されている。
なお真成は、真備や仲麻呂と同じ年頃の留学生であるが、そのうちでも真備は唐で学んだ知識を日本で活かすことができたが、真成と仲麻呂はその夢を果たすことはなかった。

このように留学生には、帰ることもなく夢を果たせなかった人や、帰国して夢を果たし活躍した人、あるいは玄理のように活躍したが最後は異土で逝った人もいる。

現代でも海外に留学し大いに見聞を広め、その知識を国家や国民のために役立てようとしている人たちがいる。
このように学問を志す人々のために、玄理ゆかりの地“高向の郷”で学問と教育に関するもの、あるいはもっと身近な“習い事”や“お稽古ごと”について、願いごとや願掛けの“絵馬掛け”の場を検討してはどうであろうか。
一般的に、学問は“天神さん”こと菅原道真の一手引き受けであるが、河内長野では、何か別のものを検討してはいかがであろうか。
もちろん高向神社では、昔から学問の神様・菅原道真が祀られていたので、絵馬やお守りは、今まで通りであるが・・・。

奥河内の閑適庵隠居  横山 豊

(筆者注)
(上)遣唐使船 講談社「週刊 再現日本史 原始・奈良⑤」
(中)百人一首 絵札(阿倍仲麻呂)
(下)井真成の墓誌(専修大・西北大・共同研究プロジェクト提供)

高向玄理(上)“古代国家をデザインした男!!”
高向玄理(中)“その人物像は!!”
高向玄理(下)“大志を抱いて決死の渡海、望郷の人たち!!”