この主郭で瓦葺の礎石建物が見つかっている。
北側の建物の柱間(はしらま)は、桁行7間(7m)、梁行2間(2m)(1間≒1m)、また南側のそれは桁行4間(10m)、梁行1間(2m)(1間≒2m)と北側の建物は、南側のものより少し規模が小さい。
この瓦葺きの礎石建物の発見は、当烏帽子形城の歴史的価値を大いに高めた。
中世・戦国期の城郭は、基本的には、防御壁は「土塁」、建物の基礎は「掘立柱」、さらに屋根は「板」で葺かれていた。しかし安土城を初めとして織豊期(しょくほうき)の城郭から土塁は「石垣」に、掘立柱は「礎石建物」に、さらに板葺は「瓦葺き」へと構造的に堅固で、耐久性のある建築物に、いわゆる我々が認識している城郭の「櫓(やぐら)」へと発展していった。
しかし烏帽子形城では、石垣のみ構築されず、未だ土塁のままであった。
従って、烏帽子形城は「戦国期から近世へ移る過渡期の城郭構造」を持つ城なのである。魚に例えれば、まるでシーラカンスのようなものであろうか。そのため当城は、日本史のみならず、日本の城郭史上でも極めて貴重な遺構と言えるのである。
主郭に神名碑が立っている。
一つは「美葦芽彦遅神(うまし あしかび ひこじ のかみ)」、今一つは「天之常立之命(あめの とこたちの みこと)」と刻まれている。これは、葦(あし)の芽を神格化して成長力を表しているのと、また天の根元の神の碑でもあると言われている。
碑の建立は明治末から大正初めと伝えられているが、建立の目的や建立者は不明とのことである。
主郭から腰曲輪へ、さらに土橋へと下って行く。
ここから東堀を左にみて東北土塁を進む。土塁の先端は、版築(ばんちく)工法で築かれていることから、ここに櫓が建てられていた可能性を窺がわせる。
すぐ下は東北の堀切で、右に東外堀が続いている。
東北土塁から東北堀切にいったん下り、さらに東北尾根に登っていく。
右下を見ると、ここに枡形(ますがた)が形成されていたことが良く判る。大手道を進んできた寄せ手は、東土塁に行く手を阻まれるため、右に攻撃方向を変える。しかしここには、枡形が構築されているため、寄せ手は東土塁と東北尾根からの攻撃に曝されることになる。
大坂城など、近世の城郭では、高麗門形式の門を潜って城内に入ると、石垣と櫓門に囲まれた長方形の空間がある。これが枡形であるが、烏帽子形城では、近世の城郭のように前後二ヶ所に門を伴った、しかも密閉された枡形空間を構築していない。
むしろ当城は織豊系城郭の縄張の特徴を持っており、未だ発展段階の枡形の姿をここに見ることができる。
我々は、ここから虎口(こぐち)を通り東外堀の中に入る。左の東土塁では一部崩落の跡が見られる。そしてそのまま堀内を進み東南堀切と東南土塁を左に見て土橋まで戻る。(H25・12・11 探訪)
横山 豊
河内 烏帽子形城 探訪記(その1)
河内 烏帽子形城 探訪記(その2)
河内 烏帽子形城 探訪記(その3)
河内 烏帽子形城 探訪記(その4)
河内 烏帽子形城 探訪記(その5)
河内 烏帽子形城 探訪記(その6)
河内 烏帽子形城 探訪記(その7)
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河内 烏帽子形城 探訪記(その10)