高向玄理(下)“大志を抱いて決死の渡海、望郷の人たち!!”
遣隋使や遣唐使として多くの若者が海を渡った。 遣隋使は、聖徳太子が隋に派遣した使節で、第1回は推古15年(607)、小野妹子を正史に対等外交の国書『日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無き …
奥河内 河内長野に関する、あんな人・こんな人・スゴイ人の紹介です。奥河内 河内長野のあれこれ 何にでも関心があり、突っ込みたがる関西人のブログです。河内長野の魅力、歴史散歩、習俗あれこれ、奥河内 河内長野にまつわるあんな人・こんな人・スゴイ人について。奥河内 河内長野の花・樹木や神仏見楽記など。
遣隋使や遣唐使として多くの若者が海を渡った。 遣隋使は、聖徳太子が隋に派遣した使節で、第1回は推古15年(607)、小野妹子を正史に対等外交の国書『日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無き …
高向漢人玄理(たかむこのあやひとくろまろ)、あるいは高向漢人玄理(たかむくのあやひとげんり)は、『日本書記』にたびたび登場する。 推古16年(608)、小野妹子(おののいもこ)が率いる遣隋使に留学生と …
日本の古代国家のデザインをした男がいる。名を高向玄理(たかむこのくろまろ)と言う。 乙巳の変(いっしのへん)で、蘇我氏を滅亡させた中大兄皇子と中臣鎌足は武力で政敵・蘇我氏を倒しただけで、どのような国家 …
我が国での“戦い”をまとめると、次のようになる。 戦闘の区分 特 徴 具 体 例 戦い 合戦 局地的な戦い、戦闘 敵対する勢力対勢力の直接の戦い 千早・赤坂の戦い、湊川の戦い 川中島の戦い …
日本では古代より幾多の“戦い”があったが、それらの“戦い”はその規模、地域、内容などによってその呼称がそれぞれ異なる。 “乱”と“変”と“役”、さらに“戦い”や“合戦”、そこに“陣”や“戦争”や“一揆 …
天誅組の行動には疑問がある。京から五條へのルートの取り方が不可解である。 まず行軍ルートの日程と距離であるが、実際は行軍していないが「京⇒五條」直行ルートなら奈良道を南下すればよく、しかもこの道なら約 …
天誅組の“政治的立場・思想“について、二つの見解がある。 一つは“尊王攘夷派”、もう一つは“尊王討幕派”であるが、天誅組とは何かを考える時、まず幕末の列強との交渉を見なければならない。 文久2年(18 …
京都の公家・中山忠光(なかやま ただみつ、弘化2年(1845)4月13日~元治元年(1864)11月5日)は、官位を辞し、しかも無断で京都を脱し、さらに名も森俊斎(秀斎)と改名して長州に赴いた。 そし …
日本の政治史上にいくつかの大改革がある。 まず第一は、“大化の改新”、第二は“鎌倉幕府の成立”、そして第三は信長、秀吉による“武家政権の確立と中世の終焉”、さらに第四は“明治維新”、そして第五は、第二 …
河内長野に“モックル”という“ゆるキャラ”がある。 いわゆる“ゆるキャラ”とは、“ゆるいマスコットキャラクター”の略であるが、市域での催しなどに登場し、“ご当地キャラ”とも呼ばれている。 その姿、形は …
“たし”の出自について、『立入左京亮宗継入道隆佐記』には、「大坂にて川那う左衛門尉と申す女」とあり、石山本願寺に仕えた川那部氏の女では、といった説もある。 なお、宣教師は、“たし”さんのことを、「永遠 …
美しい人がいる。名を“たし”と言い、戦国期の三大美人の一人と言えそうな人である。 ところで、我が国で美人と言えば、まず頭に浮かぶのが織田信長の妹・お市の方。『織田軍記』巻第六には「おいちの御方は、近國 …
中村一氏が築き、しかも国の史跡に指定された烏帽子形城とは、どのような城であったのだろうか。 烏帽子形城は、標高182mの烏帽子形山の山頂部に築かれている。麓を高野街道が走り、当城の北に大日寺、善福寺が …
“国の史跡”を築いた男がいる。中村孫平次一氏(なかむら まごへいじ かずうじ)がその人である。そしてその史跡こそ“河内 烏帽子形城”である。 一氏の出自について諸説あり、詳らかでない。近江源氏佐々木氏 …
我々と水との係わりには、“活用と治水、”の二つある。 まず活用には、飲料(上水道)や灌漑(かんがい)、あるいは水運などがある。 飲料(上水道)では、天文14年(1545)に構築された小田原の早川上水( …
“寺ヶ池とその井路”とは、どのようなものだったのだろうか。 池の東西は、自然の丘陵を利用しているが、南北は新たに堤防を構築し、北堤が約126mで高さ15m、南堤が約77mで高さ13m。そして池の規模は …