“国の史跡”を築いた男がいる。中村孫平次一氏(なかむら まごへいじ かずうじ)がその人である。そしてその史跡こそ“河内 烏帽子形城”である。
一氏の出自について諸説あり、詳らかでない。近江源氏佐々木氏の族、桓武平氏良文流、藤原氏流、橘氏流、甲賀五十三家(近江甲賀郡)の一つ等など。いずれにしても詳細は不明でよく分らない。
しかし一氏は、豊臣秀吉子飼いの家臣として取り立てられ、天正元年(1573)頃、近江長浜で200石を拝領していたようである。そして天正10年(1582)の“山崎の戦い”や、同11年の“賤ヶ岳の戦い”で武功をたてたことにより同年、3万石をもって和泉国 岸和田城に入部した。
そして翌12年(1584)、秀吉は、中村一氏に命じ、根来攻めの後方支援基地として烏帽子形城を改修させると共に、高野山にも対峙。そして翌13年、秀吉はついに紀州を平定した。
現在、我々が見る“国の史跡・烏帽子形城”は、この時中村一氏が改修した城の姿である。
秀吉の紀州平定後、一氏は、その功により近江国 水口岡山城に6万石を拝領。さらに天正18年(1590)には、小田原征伐において、山中城を攻略し、この戦功により江戸に移った家康に対する抑えとして、駿河国 府中に14万石を拝領して入部した。
平成30年、静岡市は「徳川家康が築いた駿府城(静岡市葵区)に、豊臣秀吉が配下の武将に築かせた城跡が見つかった」と報じた。現天守台の南東角に重なるように野面積みの石垣(南北約37m、東西約33m)が見つかり、またその周辺から約330点もの大量の金箔瓦が出土した」とのことである。
駿府城は、天正13年(1585)、徳川家康が築城を始め、同16年(1588)に完成しているが、小田原征伐の後、家康が駿府から江戸に移ったことにより、同18年、秀吉配下の中村一氏が入城している。
この金箔瓦は、秀吉の威光を家康の家臣団や住民に誇示するために用いたと考えられる。
このように出世街道を走る一氏であるが、文禄3年(1598)頃、生駒親正や堀尾吉晴と共に豊臣政権の三中老に任命されている。
しかしながら、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、一氏は家康に味方した。ところが、一氏自身病弱だったため、決戦前の7月、駿府城で没し、そのため関ヶ原の戦いには、一氏の弟の中村一栄や嫡男・一忠(かずただ)が東軍に属して出陣した。
これが国の史跡を築いた男・中村一氏である。
ちなみに関ヶ原の戦功により、中村家は、伯耆国 米子城に入り、17万5000石の国持大名の格式を与えられたが、慶長14年(1609)一忠が急死。跡継ぎがいなかった中村家は、わずか二代でお家断絶、滅亡してしまった。
奥河内の閑適庵隠居 横山 豊
(筆者注)画像
(上)「烏帽子形山・烏帽子形八幡神社」『河内名所図絵』より
(下)「中村一氏」像 東京大学資料編纂所所蔵より