高向玄理(上)“古代国家をデザインした男!!”

日本の古代国家のデザインをした男がいる。名を高向玄理(たかむこのくろまろ)と言う。
乙巳の変(いっしのへん)で、蘇我氏を滅亡させた中大兄皇子と中臣鎌足は武力で政敵・蘇我氏を倒しただけで、どのような国家にするのか、その具体的な構想はあったのであろうか。答えは“否”であろう。単に豪族を倒し天皇中心の政治体制にしたかっただけではないだろうか。
改革を求めるからには、そこに新しい国家像がなければならない。
“馬上を以って之を得たるも、寧(いず)くんぞ、馬上を以って之を治む可けんや。
文武並び用うるは、長久の術なり”と言われている。
(意訳)馬上(武力)で天下を取れても、馬上(武力のみ)で天下が治められましょうか。
文武をあわせ用いる政治が、国家を長期に保つ術なのです。
武力で政敵を倒しても、その次は確固たる国家像をもった文治政治が必要である。そしてその国家像を描いたのが“高向玄理”なのである。

中臣鎌足(なかとみのかまたり)は、もともと鹿島神宮の祭祀者で神職を司る中級豪族であったが、唐から帰国した僧・旻(みん)や南淵請安(みなみぶちのしょうあん)に師事、かの国の状況を知り、唐のような皇帝を中心とする中央集権的官僚国家の樹立を望んだ。そのためには、蘇我氏のような強大な豪族の存在はあってはならなかった。そこで中大兄皇子と謀り、蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)を殺害し蘇我宗家を滅亡させた。
クーデターのあと、大化の改新では孝徳天皇が即位、中大兄皇子は皇太子に、そして新設された左大臣には、阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)、右大臣には、滅亡された蘇我氏の一族で蘇我入鹿の討伐に加担した蘇我倉山田石川麻呂(そがの くらやまだの いしかわまろ)が、そして鎌足は、内臣(うちつおみ)として政権の補佐役に就任したが、彼らはいずれも乙巳の乱の当事者である。そして重要なことは、国博士(くののはかせ)として高向玄理と僧旻が任じられたことである。

大和政権は、従来、大王(おおきみ)を中心とする畿内豪族の連合政権で、この制度は血縁的組織である“氏(うじ)”の首長・氏上(うじのかみ)が大王から“姓(かばね)”という地位をもらい国家の運営に携わっていた。これを“氏姓(しせい)制度”という。
なおこの制度の下では、大王と臣(おみ)の蘇我氏、平群氏、葛城氏や連(むらじ)の物部氏、大伴氏、中臣氏とは、その権力においてそれほど大きな差はなかった。
しかしながら大化の改新後は、唐の制度を導入し、従来の豪族中心の“氏姓制度”から天皇中心の“律令制”中央集権国家へと変貌させることによって、天皇の権力は強大となり、他の豪族との差は大きく開いた。そして乙巳の乱の首謀者三人は、乱後、新たに設けられた大臣に就任することにより豪族の力は削がれた。その結果、鎌足の地位は、おおいに高められ鎌足の目論みは見事に成功したと言えるのである。

律令国家とは、「律令(りつりょう)」という律令政治の基本法によって運営された古代国家のことで、「律」は刑法、「令」は、それ以外の行政法のことを指している。
日本における最初の「令」は、天智天皇が、白雉19年(668)に制定した「近江令(おうみりょう)」とされ、養老2年(718)制定の「養老律令」以降は、律令は制定されず、その代わりに「格式(きゃくしき)」が制定された。
なお「格(きゃく)」とは、律令を修正する勅令・官符(かんぷ)を、「式(しき)」とは、律令と格の施行細則を言う。
このように律令政治とは、奈良時代に律令制度を基本とした政治形態であるが、氏姓制度を引きずり旧豪族が中央貴族に変わっただけで、彼らはそのまま支配層として温存された。そして中央では“二官八省”の官人に、地方では“国司”に任じられ地方の行政を行った。
なお二官八省(にかんはっしょう)とは、律令制の中央行政組織のことで、二官は、神祇官と太政官、八省は、太政官に所属する中務(なかつかさ)、式部、治部、民部、兵部、刑部(ぎょうぶ)、大蔵、宮内の8省のことをいい、それぞれの省が各政務を分担した。
そしてこの律令国家のデザインをしたのが、高向玄理であり、中大兄皇子と中臣鎌足の知恵袋こそ玄理であった。

奥河内の閑適庵隠居  横山 豊

(筆者注)
高向神社

高向玄理(上)“古代国家をデザインした男!!”
高向玄理(中)“その人物像は!!”
高向玄理(下)“大志を抱いて決死の渡海、望郷の人たち!!”