定年旅行

サラリーマン人生にとって避けて通れないものが二つある。
一つは転勤、もう一つは定年である。転勤は時間が経てば以前と同じような生活が戻って来るが、定年は時間とともに過ぎ去っていく。

昔の定年は「隠居」することによって成り立っていた。
判断が狂い、決断が遅くなると、権力の座に執着することなく家督を譲り、趣味の世界に生きた。これは日本人の長い歴史が培った生活の知恵である。
第二の人生を趣味に生きる。旅行やハイキングなど第二の人生を趣味に生きることほど素晴らしいことはない。
58歳でラインオフし、いわゆる権限を若い人達に譲る。昔の隠居制度に似ている。さらに60歳になると本当に定年を迎える。しかもこの時から「仕事」と言う第一の人生に別れを告げ、「趣味」に生きる第二の人生が始まるのである。

その趣味に生きる第二の人生の第一回目として「定年旅行」に行ってきた。
行き先は「萩」。萩は、「維新と焼き物」の町である。
それにしても、萩は、不思議な町である。
全国に小京都や小江戸と呼ばれる町は多いが、同じ城下町であってもどれにも分類されない。JRが旧の城下町を通っていないので、町全体が近代化と言う名のもとに行われた破壊から守られた。そのため江戸時代の町がそのまま残って今日に至っている。美しい町並みがどこまでも続く。金沢や津和野、弘前や松本の比ではない。よくぞここまで城下町が残ったものと感心する。

萩は、関ヶ原で西軍の総大将に祭り上げられた毛利輝元の城下である。
徳川によって山陰の片隅に追いやられた所が、この萩である。毛利が軍を率いて山陽道に出てくるにはあまりにも遠い。瀬戸内の山陽道に出陣してきた時には、徳川軍は完全に布陣を終えて毛利の到着を待ち構えていられる場所、その地が萩である。にもかかわらず、幕末には辺境の地・薩摩、土佐とともに倒幕運動を起こすことになる。そんなことに思いを馳せながら萩の町を散策した。

季節は真冬の12月。古都を散策するにはあまりにも寒くて厳しい。観光客は皆無。すぐそこは日本海である。
まづ維新の思想的原動力となった吉田松陰の「松下村塾」に行く。このビックリするように小さな塾で、松陰は、高杉晋作や伊藤博文あるいは木戸孝允らを育てたのである。
幕末の志士の内、人気ナンバーワンは、土佐の坂本龍馬かも知れないが、第二は長州・高杉あたりがノミネートされるのかも知れない。
我々は、ここから萩の町中の散策を始める。城下町を循環するバス「松陰先生号と晋作くん号」が走っているが、せっかく城下町に来たのである。観光名所だけを選別して足早に巡って行くには、あまりにもモッタイナイ。じっくりと時間を懸けて散策するのがこの町の歩き方であろう。

戦災にもあわず、時間が止まったような町には、江戸時代の武家屋敷や町屋がよく残されている。
その内でも圧巻は「長屋門」巡りかも知れない。これが「北の総門」を入ると一段と多くなる。これでもかこれでもかと長屋門が続く。「城大好き人間」の私にとっては堪らない魅力。しかもどの長屋門も外観が異なり豊かな個性溢れる存在。堪らない。
町筋は、碁盤目状に企画されている。
同じ外様大名でも金沢の前田の城下町と、こことでは、その町造りの基本構想が大きく異なる。金沢の城下町では迷路のごとく道が走っているが、この萩ではほとんど碁盤目状に道が造られている。この碁盤目状の町の作り方は、天下に号令した町・京や大坂あるいは天下を狙った町・名古屋や和歌山、世界に通じた町・堺など、限られた所にしか存在しない。
なぜこの萩にこのような碁盤目状の城下町が構成されたのか不明である。

やがて萩城址に至る。
この城は三方を海に囲まれ東南に城下町を開いた正に背水の陣を引いた城である。
城は慶長九年(1604)毛利輝元が防長二州、36万石の居城として築いたものであるが、幕末には、封建時代の遺物として天守閣は撤去され、現在は堀と石垣のみを残している。今ならその「失われた時代(封建時代)の遺跡」として世界遺産にも登録されていたのかも知れないが・・・。
この萩の町は「城郭と城下町」が一体となって初めてその価値がある。惜しいことをしたものである。今後は史実に基づいた城郭の復旧が望まれるのだが・・・。

萩はまた「焼き物」の町でもある。
昔の茶人は「一楽、二萩、三唐津」と茶碗を愛好し、使い込むほどにその表情を変える「萩の七化け」を楽しんだ。そんなことを考えながら「萩焼」を求めて散策。店は多いし、作品も多い。しかし欲しい作品には巡り合わない。地元・萩に来たからには、何か一つでも記念になる焼き物を買って帰りたいと思っていたが、無ければやむを得ない。自ら作るか。

翌日、「吉賀大眉」記念館で作陶に精を出す。
吉賀大眉は文化功労者に列せられた著名な陶芸家である。にもかかわらず、新参者で初心者の私が、この大先生の窯で萩焼に挑戦することになる。厚かましい?。
萩焼との出会いは最近である。
大阪の「老松通り」の骨董市で偶然にも「玉村松月」の作になる「井戸茶碗」を手に入れた。時に平成16年5月のことである。しかもこの「井戸茶碗」、形と言い、景色と言い、梅花皮(かいらぎ)と言い、どれを採っても私が今まで見てきた井戸茶碗を遙かに越えた素晴らしい物である。
この時から萩焼が気になり出すこと、気になり出すこと。困った性格である?。
真冬のことでもあり特に旅行者がいるわけでもない。従って、先生一人に、生徒は我々二人。しかも午前中は貸し切り状態。一からの手ほどき。私は抹茶茶碗に挑戦。先生が良いのか、はたまた生徒が良いのか。何とか作品ができてきた。

定年後にやってみたい趣味の上位に「陶芸」入っている。
泥遊びを楽しみながらの造形、窯での窯変への期待、出来上がってから使う楽しみ。陶芸だけは、三度楽しめる。これが趣味の上位に入る理由であろうか。
形が出来上がると、あとは焼き上がりに望みを託す。窯変に期待し、出来あがってくるを楽しみに待つ。2ヶ月のちに、我が処女作との対面を心に描いて窯元をあとにする。

また又、城下町を散策する。
今夜もまた萩泊まり。時間はたっぷりとある。史跡を楽しみ土産物屋を冷やかし、良い作品に巡り会えることを期待して焼き物店を巡る。
城の前にある「玉村松月」の窯元を覗いたが門が閉っていて休み。期待は大きく揺らぐ。萩まで来て茶碗一つ手に入らないのではと、やや焦りが出てくる。しかし次ぎに入った店で何となく気に入った筒茶碗を手にして眺めていると、なんとこれが「玉村松月」の作品。やっぱりあったか。これでやっと萩に来た甲斐があったと感じる。もう何時萩を後にしても良いといった心境になる。気に入った茶碗を手に入れ、意気揚々と今夜の宿「北門屋敷」に引き上げる。

北門屋敷は、旧毛利家の屋敷跡で、当時の遺構は全くないが、ゆっくりとくつろげる宿である。真冬のことでもあり宿泊客は少ない。時間がゆっくりと流れていく。

どこの観光地でも同じであろうが、特に京都、奈良では、季節外れに探訪するのが良い。
静けさがあり、観光化される前の真の姿や良さが、そこには漂っている。静寂の中に一人自分が居ることで、今自分が居る場所の本当の良さや素晴らしさを、全身で受け止めて感じることができる。それが季節外れに観光地を訪れる醍醐味である。

明日は、津和野の町に行き、それから大阪に帰ろうと思っている。

さて次の「定年旅行」はどこにしようか。
いや、次はもう「定年旅行」とは言わない。毎年々、定年があるわけではない。次回からは「熟年旅行」か、それとも「年金族旅行」か、あるいはもっと違った格好良い旅行名を考えるか。
それともう一つ、次ぎはどこに行くか。
焼き物の町「備前」や「美濃」も魅力的。それとも、もっと違った目的を持った旅にするか。
考える時間はたっぷりとある。
(横山 豊)