日本のお正月の室内戯には、かるたでは「百人一首」と「伊呂波かるた」、そして「福笑い」に「双六」がある。そのうちでも百人一首は、老若男女を問わず、ダントツの人気がある。
百人一首は、学問的な知識ではなく、正月の遊戯として家庭内に広く浸透してきた。そして昔は、どこの家庭でも松の内の夜は、カルタ取りを愉しんだ。
競技には、「一対一」や「源平」といって二人が一組になって対戦する方法や「坊主めくり」など単純なものもある。
幼い頃は、句の意味も全く解らないが、それでも自分の得意な、あるいは知っている数枚の札のみを取るためその歌が詠まれるまで辛抱強く待った。そのうちに知っている札も徐々に増え、取れる札も多くなっていくのが、また楽しい思い出でもあった。
高校時代、古文で多くの和歌を習い多くの和歌を知ったが、何時まで経っても覚えているのは、やはり百人一首であった。
してみると、百人一首ほど、我々日本人に愛され、詠まれ、受け継がれてきた文学も珍しいのではないだろうか。
そしてカルタ取りをすることによって、友情が芽生えたり、時には二人の愛が育まれることもあった。あるいは日常の会話もないご近所の人たちと親しくなれたりもした。そのため、正月の遊戯として、百人一首ほど、人々に親しまれ、また親しんできた遊戯もないのではなかろうか。
百人一首は、京都の西・嵯峨の地の小倉山荘(おぐらさんそう)において、藤原定家(ふじわら ていか)によって撰ばれたと伝えられている。
歌カルタは、平安時代の貴族たちが楽しんだ「貝合わせ(かいあわせ)」や「貝覆い(かいおおい)」にその起源があり、それが「歌貝(うたがい)」に発展していったと言われている。
なお「貝合わせ」も「貝覆い」も同じもののようであるが・・・。
多くの貝殻の中から貝そのものが一致するものを選ぶ、あるいは貝の内側に絵や和歌が描かれ、絵が一致するものや和歌の上の句と下の句が合うものを選ぶようになっていった。これが歌貝で、百人一首の始まりの姿であり、素材も貝から板へ、そして紙へと変わっていったようである。
百人一首では、詠み手が「上の句」を読み、「下の句」を数人の取り手が取る。詠まれているのは、古の名歌である。
欧米で、あるいは諸外国で名歌をカルタ形式にして遊ぶ遊戯など、あるだろうか。
バイロン、ハイネの詩がカルタになっているであろうか。漢詩がカルタになっているであろうか。
いやいや、それよりもこれだけ多くの人たちが歌を詠んできた国があるだろうか。
このような形式のカルタなど、どの国にもない。
その意味では、百人一首は、名歌、競技方法、開催回数の多さなど独創的で、しかも正月ごとに数百年もの間、毎年繰り返し開催されてきた家庭の室内遊戯(遊戯カルタ)であり、競技として行われるスポーツ(競技カルタ)でもある。
そしてこれこそ世界に誇れる日本文化である。 (門仲博文)