体罰、いじめ  校内暴力 蔓延 ?? !! 

体罰問題が発生した。今や学校は生徒間の「いじめ」と教師による「体罰」で、地獄と化していないか。
『学校教育法』第11条には、体罰について次のように規定している。
「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の認めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない」と。
従って、体罰か、懲戒かの区分は、次のようになる

体   罰 肉体的苦痛 長時間の正座、直立など
精神的苦痛 暴言を吐くなど
肉体的苦痛 殴る、蹴るなど
懲   戒 ①授業中、教室内で起立させる
②罰として、特別に清掃活動を課す
③学級の当番を特定の個人に、必要以上に多くさせる
④腕立て伏せいやウサギ跳び、ランニングを追加的にさせる

文武(勉学とスポーツ)で考えてみると、勉強が出来なければ教師は体罰を下すであろうか。
理解できなければ、教師は補習をするし、生徒自身も参考書を買たり塾に行ったり、あるいは家庭教師について学ぶであろう。
要は勉強時間を増やし、成績を上げようとする。勉学では、これが普通の考えである。

しかしながら、スポーツの世界では、成果が出ないと、体罰を加え生徒たちを奮起させようとする。
何かおかしいと思われませんか。
成果が出なければ、なぜ勉強と同じように筋トレをしたり、別のトレーニングをさせて成果を出そうとしないのであろうか。強くするためには、練習時間を増やし、さらに身体的な向上と共に、技術的なものの習得も必要であろう。そのようなことをせず、単に生徒を殴る。これでは強くなるはずがない。
指導者が無能のため、成果のでるトレーニングを生徒に教えることもできないし、課すこともしない。そして自らの指導力不足を認識していない。逆に、生徒が悪いと体罰を課している。
これが体罰の実態である。
体罰とは、指導員の無知、無気力、無能力と成果への責任逃れ、さらにそれらを生徒へ責任転嫁することによって行われる暴力なのである。

何事でも、成果がでるには日常の「努力・工夫・修練」が必要であると教えられた。また「子供は牛や馬ではない。人間の子である。教えれば理解し、奮起し頑張る」とも教えられた。「殴って成果が上がるなら苦労しない」とも言われた。
にもかかわらず、そのようなことを理解せず、体罰を繰り返す。言語道断である。

それにしても、このような体罰という暴力をふるう指導者には、精神鑑定が必要であろう。
平気で人が殴れる意識は異常である。家庭内暴力の中で育ち、現在も家庭内暴力を抱えているのかもしれない。もしそのような環境にある人を指導員にしているならば、教育界そのものにも問題がある。

スポーツで、強くなれないのは、あるいは成果が出ないのは、体罰しか課さない指導教師に問題があると、なぜ理解できないのであろうか。不可解である。
さらに無能な指導員は、成果がでないと「体罰」を加え「暴言」を吐く。これでは、生徒を精神的に追い詰めるだけであろう。またこのような指導しかできない指導者は、極めて未熟であり、指導員としての資格もない。いわんやプロの指導者ではない。
指導員がこのようなレベルであるから、あるいは自らの指導が間違っているから強くならないことに気が付かない。またそのことを全く理解していない。
要は、「体罰とは、教育の失敗」なのである。そして、体罰を下す教師は、単なる無能者に過ぎないと言うことである。

社会には、「愛情があれば体罰も許される」といった考えもある。
しかし体罰は、しょせん暴力である。教育現場で横行している暴力であるとの認識が社会全体として必要である。
「教育とは、子供に教え諭し、納得させて成果を出すもの」である。そのためには、指導者の忍耐も要る。

さらに問題は、教育現場において、体罰という暴力が行われているにもかかわらず、「知らなかった」で済ませようとする校長を初め、学校関係者が多いことである。
そのような管理能力もない者を「我々の税金」で雇う必要などない。
体罰でもいじめでも、それらは学校内で起こっている。
そのような学校の校長には管理能力がないのであるから、当然のことながら処罰されるべきである。同時に、体罰をした教師の教員資格剥奪、解雇も必要であろう。
最後にもう一度言おう。
「体罰とは、指導員の無知、無気力、無能力と成果への責任逃れ、さらにそれらを生徒へ責任転嫁することによって行われている暴力」であり、「体罰とは、教育の失敗」そのものなのである。
そして「体罰を下す教師は、単なる無能者に過ぎない」と言うことである。

(木場勇人)