奥河内は、河内長野市と千早赤阪村を指す!!  

河内の国は、古来より歴史の舞台に数多く登場してきたが、現在の行政区分では、次のように分類分類されている。
北河内は、枚方、交野、寝屋川、守口、門真、四条畷、大東の7市。
中河内は、東大阪、八尾、柏原の3市。
南河内は、松原、藤井寺、羽曳野、富田林、大阪狭山の各市と太子町、河南町に河内長野、千早赤阪を加え、9市町村で構成されている。
kkouyamakiしかし河内長野市と千早赤阪村とは、従来から南河内のエリアから外されてきたが、今後も河内長野市や千早赤阪村が南河内と呼ばれる地域に留まる必要性も理由も特に見出せない。
そこで筆者は、従来の北河内、中河内、南河内の三つの分類から南河内のみを「南河内」と「奥河内」の二つに分割し、河内を四つに分けた。
これが筆者の「奥河内」発想の原点である。

平成22年(‘10)4月、33頁にわたる『河内長野市の振興に関する提言』を現市長や商工観光課に提出した。また同年の5月に開催された商工観光課やまちづくり推進室、あるいは大阪市立大学の大学院教授らとの合同会議でも同『提言』を席上配布した。
この『提言書』で、奥河内について次のように記述している。
「地域ブランドには、全て「奥河内」を付ける ⇒ 北・中・南河内からの分離・独自性を発揮する」、そして「全て奥河内の○○とか、奥河内の□□□とか表現する」と。
ここで特に主張したかったことは、「奥河内」として、現在の南河内からの分離、独立であった。

しかし残念なことに、最近、奥河内の定義を取り違え、「奥河内=滝畑」と勘違いしている書類を散見する。そしてこの勘違いは、河内長野市を初め、河内長野市観光協会、かわちながの観光ボランティア倶楽部、南海電鉄、JTBなど枚挙に遑(いとま)がない。奥河内は滝畑だけを指しているのではない。
「奥河内とは、河内長野市と千早赤阪村の市街地と山麓の全域」を指している。
滝畑は単に「奥河内の秘境」であり、天見は「奥河内の奥座敷」と言えるかも知れない。そして金剛山は「奥河内(=千早赤阪村)の霊峰」と。
また「奥河内の楠公遺跡」や「楠公の里・奥河内」、あるいは「奥河内の隠れ里・唐久谷」「奥河内の桃源郷・小山田」「奥河内の水甕・寺池」と。
さらにまた「奥河内の花樹と花園の道(天見の遊歩道・廃線道)」「奥河内の金剛・葛城行者道(ダイトレ)」「奥河内下赤阪の棚田」等など、「奥河内」を付けた表現は幾らでもできる。
そしてこれら全てが「奥河内」なのである。
従って、今後、河内長野と千早赤阪の名所、旧跡、あるいは地区紹介の枕詞として「奥河内」を付けると良い。「奥河内とは、河内長野市と千早赤阪村の市街地と山麓の全域」を指しているのであるから。
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また筆者が「奥河内」の概念を発表してから1年半後の平成23年(‘11)10月の広報『かわちながの』に初めて「奥河内」が取り上げられた。
そこでは「奥河内のイメージエリア」は「金剛山から岩湧山、そしてその山麓に広がる区域(河内長野市、千早赤阪村の山林部・丘陵部)」と設定」と紹介されている。
だからこそ「奥河内」のパンフレットでは、観心寺も西條酒造も南天苑も、あるいはグリーンロード沿いの喫茶店も紹介されているのである。
さらに天野山金剛寺や延命寺も、北の松林寺や盛松寺も「奥河内」の寺院なのである。さらにまた千早赤阪村においても「奥河内の建水分神社」であり「奥河内の上赤阪城跡」なのである。
だからこそ、紹介文にあるように「奥河内」は「大自然に恵まれ、名所・旧跡も多数ある奥河内」と言えるのである。
「奥河内とは、河内長野市と千早赤阪村の市街地と山麓の全域」を示していることを忘れてはならない。

余談になるが、このような誤用が行われるのであれば、『提言書』を書いた平成22年(‘10)4月に「奥河内」を「商標登録」しておくべきであったと悔やまれる。もっとも、地名の商標登録ができる可能性は低いと言われているが・・・。

(横山 豊)