烏帽子形山は、南海の河内長野と三日市町の間に位置する海抜182mの山で、ここに烏帽子形八幡神社と烏帽子形城が、そしてこの山の麓を高野街道が走っている。
八幡神社の本殿は、文明12年(1480)石川源氏の石川八郎左衛門尉によって建立されたことが当神社の棟札によって判明し、昭和25年、国の重要文化財に、また城跡は、天正12年(1584)豊臣秀吉の命により岸和田城主の中村一氏(かずうじ)が改修した。
当城は中世から近世への過渡期の城郭遺構を残し、平成24年、国の史跡に指定された貴重な歴史的遺産である。
この城跡の登り口・プール前に藤の花が咲いている。
藤の花は、藤色と表現されるが、淡い紫色をしており、藤紫とか青紫とかに近い。優雅で清々しく、そして美しい。藤紫色の小さな花が集まり、それが房になって垂れ下がる花姿は美しく、そのため、藤の花房が風に揺れる風情を波にたとへて「藤波(ふぢなみ)」と言う。
しかし藤は、見て楽しむだけでなく、その繊維は、衣服「藤織り」や縄などに、また種子は食用や薬用に用いられてきた。
藤の原産地は、日本であるため、古代から文学の世界に度々登場している。
古くは奈良時代初めに編まれた日本最古の文学書『古事記』の応神天皇の条に次のような記述がある。
春山之霞壮夫(はるやまの かすみ おとこ)が伊豆志袁登売(いずしおとめ)のもとへ求愛に行く時、霞壮夫の母は霞壮夫に藤葛(ふじかづら)で織った衣装を着せ、藤の弓矢を持たせたところ、伊豆志袁登売の前では全てが「藤の花」に変わったとのことである。
また今から1000年前、紫式部によって書かれた世界最古の長編小説『源氏物語』「桐壺」の帖では、光源氏の生母・桐壺更衣(きりつぼのこうい)に良く似た女性として、この優雅な花の名が付けられた藤壺(ふじつぼ)に光源氏は愛情を覚えている。
そして同じ平安時代、清少納言による随筆『枕草子』第44段では「木の花は、(中略)藤の花、しなひ長く、色よく咲きたる、いとめでたし」と、藤の花房がしなやかに曲がり長く垂れ、色よく咲いているのが、たいへん素晴らしいと、また第92段では「めでたきもの」として「色合ひよく、花房長く咲きたる藤の松にかかりたる」と、色合いが良く、花房が長い藤が松の木にかかっているものが賞美すべきもの、素晴らしいと記述している。
古来より藤の花を女性に、松の木を男性に見立て、この二つの木を近くに植え、男女の和合を表したと伝えられている。そしてまた松と藤の組み合わせが日本庭園の基本の構図、絵柄となった。
さらに鎌倉時代に記述された鴨長明による随筆、『方丈記』では、方丈の庵の周りに「春は藤波を見る。紫雲のごとくして西方ににほふ」と、藤の花が紫の雲のように西を彩っているとその風情を描写している。
西風狂散人(かわちのふうきょうさんじん)