今も楽しめる!! 河内長野の蓮華畑

蓮華草堺の大小路を起点とする西高野街道と、京の岩清水八幡宮を発した東高野街道は、南海・河内長野駅前で合流する。ここで一つになった街道は、石川を旧西條橋で渡り、さらに南の大日寺を過ぎ、道をなおも南に採ると、やがて烏帽子形八幡神社に至る。
当神社は、石川源氏の末裔・石川八郎左衛門尉によって建立されたと言われている。
そしてこの神社の上に烏帽子形城跡がある。
当城は豊臣秀吉の命により、岸和田城主の中村一氏(かずうじ)が紀州攻めの拠点として改修したものであるが、今も戦国期の遺構を残していることから、平成24年(‘12)、国の史跡に指定された。
当地は、高野街道の上田宿の北に位置することから喜多(きた=北)町と名付けられている。

この神社と城跡の東の麓に蓮華畑が広がっている。
蓮華草蓮華草は、花茎の先に丸く輪になった花が咲き、またその色彩からも蓮の花に見立てられ「蓮(はす)の花に似た草」から蓮華草と名付けられたようで、レンゲともゲンゲとも呼ばれる。
蓮華草は、もともとその根が緑肥(りょくひ)となることから栽培されてきたが、花の蜜は、蜂蜜の源であるし、若芽は食用になる。また牛の飼料として、あるいは薬草としても利用されてきた。

蓮華草について、ギリシャ神話に哀しい話が残されている。
姉妹が祭壇に供える花を摘むため野に出ると、蓮華草が咲いていた。しかしその蓮華草は、妖精が嫌な男から逃げるために姿を変えていたのだった。姉はそのことを知らず、その蓮華草を摘むと、呪いによって姉は蓮華草に変えられてしまった。そこで姉は「花はみな女神が姿を変えたもの。もうこれからは花を摘まないで!!」と、妹に忠告したと言う。
蓮華草
子供の頃、春になると、近所の田圃は一面の蓮華畑だった。子供たちは、そこで飛んだり跳ねたり、寝転んだり、あるいはまた、この蓮華草とクローバーで花の冠を作ったりして遊んでいた。まさに蓮華草は、子供たちに春の到来を告げる花であった。
なお、その頃、蓮華草に姿を変えた妖精や呪いをかけられた神話の姉に出会うことはなかったが・・・。
この蓮華草は、当時ありふれた花であったが、子供心に綺麗な花だなと思った記憶がある。そして今でもまだ・・・。
20年ほど前まで、河内長野でもレンゲ畑は、春の風物詩でもあった。
そして現在、わずかに残る喜多町の蓮華畑は、4月中旬ごろ、見事に咲き誇り、赤紫の絨緞が何枚も引きつめられる。
河内長野市内では、今でも天野街道の下里付近や蟹井神社前でも蓮華畑が見られ、我々の目を楽しませてくれる。

西風狂散人(かわちのふうきょうさんじん)