聖王を表す鳳凰(ほうおう)は、「桐の木だけに棲み、竹の実だけを食べ、霊泉にあらざれば飲まず」という言い伝えがあり、桐の木は霊鳥の宿る木と考えられてきた。ちなみに、鳳凰は瑞鳥、神鳥、霊鳥などと呼ばれ、鳳はオス、凰はメスを指すそうである。
聖天子が生まれる時、世に幸運が訪れる瑞兆として、鳳凰がこの世に現れると言い伝えられ、桐はその鳳凰が止まる木として、神聖な木あるいは縁起の良い木と見なされてきた。「聖天子誕生」と「鳳凰、桐、竹」とが一体のものと考えられてきたのである。
『源氏物語』「桐壺」の帖では、光源氏の父・桐壺帝が登場するが、この帝の名は、「聖天子⇒鳳凰⇒桐⇒桐壺帝」の図式から編み出されたものと推察される。そして『源氏物語』では、「桐の花の紫」に象徴される桐壺更衣と「藤の花の紫」に暗示される藤壺女御、さらに光源氏の正妻・紫の上(若紫)の三人に共通している色が、この桐の花に代表される「紫」なのである。紫は昔から高貴の象徴とされてきたから、紫にゆかりのある名前を登場させたのであろう。。
そしてその著者・紫式部にも当然のことながら物語全体をまとめるように「紫色」が漂っている。『源氏物語』は「紫の物語」と言っても良いのかも知れない。
桐は鳳凰が止まる木として神聖視されたことにより、「桐⇒鳳凰⇒聖天子⇒天皇」のイメージに繋がり、それを意匠化した家紋が描かれてきた。
我が国で、桐が描かれた紋には「桐紋」や「桐花紋」があるが、そのうちでも五七の桐紋や五三の桐紋が特に有名である。
しかし同じ桐紋でも、序列があり五七の桐紋が五三の桐紋よりも上位の紋のようである。
そして嵯峨天皇(延暦5年(786)~承和9年(842))の頃から、天皇はこの紋を使い出したので、桐紋は高貴な紋章と考えられてきた。
興味深いことは、この桐紋が、上位者から下位者に下賜されることによって広まった紋であることである。天皇は足利将軍家に、そして将軍家から織田信長に、また天皇から豊臣氏にも下賜された。
そのため桐紋は、特に五七の桐紋は、「天下人の紋章」との認識が広まっていったようである。
さらにその五七の桐紋は、秀吉から加賀の前田家や陸奥の伊達家、あるいは土佐の山内家などに、また五三の桐紋も各武将に下賜されていった。特に秀吉は、配下の武将に桐紋を与えることで人心を掌握し、その下賜を大いに政治利用したようである。
このように、この桐紋は、上位者からさらに下位者の武家に下賜されることによって益々広がっていった。
しかし江戸幕府が開かれると、天皇は徳川将軍家にこの桐紋を下賜しようとしたが、家康は「家に伝わる葵の紋があるゆえ」とこれを固辞している。
そして徳川家は、菊の紋や桐紋を使うことには何の制限もしなかったが、葵紋の使用のみを禁じた。そのため葵の紋は、菊紋や桐紋よりもより一層上位の紋と考えられ、その格を挙げていった。
さらに家紋を持たない庶民も、使用制限のないこの紋を必要に応じて使った。そのためこの紋は、より一層一般化し広まっていったようである。
その結果、桐紋は、家紋のなかで最も多く用いられてきた。
しかしこれはこの紋が下賜されてきただけでなく、意匠も美しく、また元々高貴な紋であったからこそ、武家を初め一般の庶民にも愛され使用されてきたと推察される。
そしてこの五七の桐紋は、今もなお、五百円硬貨の表を飾り、我々に最も馴染みの深いものとなっている。
西風狂散人(かわちのふうきょうさんじん)