奥河内 観心寺の観梅

一輪、二輪しか咲いていない梅を野山に探し求めて訪ね歩くことを「探梅(たんばい)」と言い、梅を観賞することを「観梅(かんばい)」と言うそうである。
その梅の花が楽しめるのが観心寺である。
観心寺は、大宝年間、役小角(えんの おづぬ)が葛城修験道の道場として開創したが、大同三年(808)空海が当地を巡錫の時、厄除けのために北斗七星を勧請した。
そしてその後の弘仁六年(815)、空海は現・本尊の如意輪観音菩薩を刻み観心寺として当寺を再興した。
当寺は、関西の二府四県にまたがる「花の寺」25ヶ寺で結成される「関西花の寺」の一寺として、第25番目に登録されており、境内には多くの花が咲く。
梅の木は、遣隋使や遣唐使が中国から持ち帰ったと言われ、奈良時代、「花」と言えば「梅」を指していた。
従って、現在のように「花」と言えば「桜」を意味するようになったのは平安時代中期以降のようである。
紀貫之(きの つらゆき)(「百人一首」『古今集』)は、次のように詠ったが、この和歌は筆者の好きな一首である。
「人はいさ 心も知らず 古里は 花ぞ昔の 香に匂ひける」
ここで歌われている「花」は、梅の花であって、桜ではない。しかし次の二首は桜を詠っている。
「花の色は 移りにけりな いたずらに 我がみ世にふる 眺めせしまに」小野小町(おのの こまち)
「ひさかたの 光のどけき 春の日に  しづ心なく 花ぞ散るらむ」紀友則(きの とものり)

梅の花は、桜のように慌ただしくない。ゆっくりと咲き、ゆっくりと散る。静心無く散る桜とは、一味違う。そして密やかに、やがて微かな香りを漂わせ我々に春の訪れを知らせてくれる。
派手さはないが忍びし人に会った心地がする。静けさの中に凛としたものを感じる。
そしてまた、梅の花は、一輪、また一輪と寒さに耐えながら咲いていく。その風情に何かしらほのぼのとした力強さを感じる。そこには満開の時に味わえない何かがある。これが梅の花である。
梅の花は、多くの花よりも先に咲くことから「花の兄(はなのあに)」と、逆に、一番遅れて咲く菊は「花の弟」と呼ばれるようである。
そしてその梅の木に一番早く飛んで来る鳥は「花見鳥」と言い鶯を指している。
梅は古来より様々な世界で取り上げられてきた。
『万葉集』を始め、多くの和歌に詠われ、俳句にも詠まれている。また取り合わせの良いもの、あるいは対をなす図柄として「獅子に牡丹」や「紅葉に鹿」などと同じ様に「梅に鶯」がある。
ことわざもある。「桜伐る馬鹿、梅伐らぬ馬鹿」や
「桃栗三年、柿八年、柚子の大馬鹿十八年、梅は酸いとて十三年」等など。イヤまだある。
梅を国花にしている国もあるし、日本では県花にもなっている。もちろん花言葉もあれば、盆梅もある。このように梅は実に多彩である。
江戸時代、各藩は梅を栽培し、非常食として梅干し作りを盛んに行った。そのため全国で多くの梅林が見られるようになったが、その代表が水戸の偕楽園(かいらくえん)である。
観心寺の梅は、2月下旬から3月上旬満開になり、周囲にほんのりとした甘い香りを漂わせる。
当寺は、この梅、椿に始まり、春の桜、ツツジにサツキ、そして夏の百日紅(さるすべり)や秋の紅葉と季節ごとに花が楽しめる。正に花の寺と言うべきであろうか。

西風狂散人(かわちのふうきょうさんじん)