水仙 春の訪れを告げる! 奥河内 石仏の向井田に!!
南海・三日市町駅周辺は、江戸時代「三日市宿」の「宿場」であった。 しかし現在、このあたりは「三日市町」と言い、駅名も「三日市町」と命名されている。町名はやむを得ないとしても、せめて駅名は「三日市宿」に …
西風狂散人の花・樹木紀行。奥河内 河内長野のあれこれ 何にでも関心があり、突っ込みたがる関西人のブログです。河内長野の魅力、歴史散歩、習俗あれこれ、奥河内 河内長野にまつわるあんな人・こんな人・スゴイ人について。奥河内 河内長野の花・樹木や神仏見楽記など。
南海・三日市町駅周辺は、江戸時代「三日市宿」の「宿場」であった。 しかし現在、このあたりは「三日市町」と言い、駅名も「三日市町」と命名されている。町名はやむを得ないとしても、せめて駅名は「三日市宿」に …
寺院には、山号と寺号がある。 奥河内の盛松寺は、山号を「仏日山(ぶつじつさん)」と言い、寺号は「盛松寺(せいしょうじ)」と号している。 この仏日(ぶつにち)とは、辞書によると「仏の光明が衆生(しゅじょ …
奥河内の盛松寺に興味深い話が伝わっている。 大同3年(808)の頃、弘法大師・空海は、泉州槇尾山への巡錫の途中、当地(現・河内長野市楠町付近)で疫病が蔓延していることを聞かれ、厄病平癒のご祈祷をされた …
奥河内の観心寺は、楠木正成ゆかりの寺院として知られている。 正成が幼少の折には当寺の中院で仏道修行に励み、湊川の戦いで敗れた後は、当寺に祀られた。そして幕末の文久三年(1863)天誅組は、その墓前に参 …
日本では、どの家にでも家紋がある。 しかし世界中で家紋が存在するのは、日本とヨーロッパの貴族だけである。その紋、我が国では神社には「神紋」が、そして寺院には「寺紋」と呼ばれるものがある。 河内長野の松 …
南海・滝谷駅前から西に不動・妙見道を採り、しばらく行くと松林寺に至る。 この寺の手水鉢には、多くの穴が穿たれている。この穴は、盃状穴(はいじょうけつ)と言われるもので、昔、子供を欲しがった女性は、石を …
南海・河内長野駅前に長野神社が建つ。 この神社は江戸時代まで「木屋堂宮(こやどのみや)」とか「牛頭天王宮(ごずてんのうのみや)」と呼ばれていたが、明治になって「長野神社」と改称された。 牛頭天王は、牛 …
南海・三日市町駅から東に道を採る。道のそばには、いつも清流が流れているが、この清流は江戸時代に構築された三日市の井路である。 三日市宿では、西から北へ天見川が、また南には石見川が流れている。さらにこの …
西高野街道と中高野街道に挟まれた地・松ケ丘に松林寺が建つ。 当寺に面白い仏様が祀られている。 仏様は、ふつう人間の形をしているが、異形の仏様もおられる。その筆頭が歓喜天(かんぎてん)、愛称は、聖天(し …
奥河内の延命寺に桃の木で作られた「鬼退治の弓」が伝わっている。 伝承では、悪鬼を射て退治した時に使われた弓と言われ、『観音冥応集(かんおん めいおうしゅう)』には、次のような記述がある。 「鬼を射たる …
河内長野市内の寺院32ヶ寺の内、真言宗が16ケ寺(50%)、融通念仏宗が6ケ寺(25%)で、残りの25%をそれぞれの宗派が占めている。この宗派の中の一つに真言律宗がある。 真言律宗は、高祖を弘法大師・ …
南海・三日市町駅から東に森の中の道を進むと、延命寺が建つ。 弘仁年間(810年~823年)、弘法大師・空海が当地を巡錫した時、当地は薬樹や薬草が多く、真言密教の霊地に適していると、自ら地蔵菩薩を刻み一 …
「小山田」のバス停前の、船首のような台地を廻ると広々とした田畑が広がっている。 ここが小山田の「桃と梨の里」である。 桃の里は、平和で豊かな桃源郷(とうげんきょう)、俗界から離れた仙境と考えられ、古来 …
「與通(よつ)のお大師さん」と呼ばれる盛松寺(せいしょうじ)は、河内長野の楠町にある。 本尊は弘法大師。伝承では、当地で弘法大師が祈祷を行ったが、その場所から樟の木が生えてきた。この樟の木は霊木として …
堺の大小路を起点とする西高野街道と、京の岩清水八幡宮を発した東高野街道は、南海・河内長野駅前で合流する。ここで一つになった街道は、石川を旧西條橋で渡り、さらに南の大日寺を過ぎ、道をなおも南に採ると、や …
南海・三日市町駅から石見川を遡ると、左右は清流と青葉の道が続く。やがて森の中に延命寺を見る。 ここは現在「神ケ丘」と言われるが、かっては「鬼住(おにすみ)」と呼ばれていた。 伝説によると、和泉の国の父 …