卯の花の匂う 奥河内 大沢峠道

卯の花河内長野の東と南には、金剛・葛城山脈が走り、山を越えないと紀伊の国や大和の国には行けない。
紀伊の国には、滝畑から蔵王峠を越える滝畑街道が、また紀見峠を越える高野街道が通じ、一方、大和の国には、大沢峠を越える大沢峠道とか五條街道あるいは河泉街道とも呼ばれる道が、さらに千早峠を越える千早街道がそれぞれ大和の五條に走っている。

金剛山脈や葛城山脈の縦走路は、ダイヤモンドトレールと呼ばれるが、金剛山から金剛石、すなわちダイヤモンド、そしてこの発想から当縦走路は、ダイヤモンドトレール、略してダイトレと呼ばれるようになったようである。
しかし役行者の活躍した奈良時代から多くの修験者たちに親しまれ、また行者たちは、この道を走って修行したであろうに、どうしてこのように安易な、しかも品格もなければ歴史も感じさせない命名をするのであろうか。命名者の感性を疑う。
この金剛・葛城山脈の縦走路を歩いていると、多くの経塚があり、役行者ゆかりの史跡も多い。
従って、筆者は、この縦走路卯の花を「金剛・葛城行者道」とか「金剛・葛城修験者の道」とか呼んで、その歴史の重みを感じようとしている。
将来、たとへ世界遺産に登録されなくても、せめて日本遺産や大阪府の遺産などに登録される可能性もある。しかしこのように何の歴史も感じさせないような命名をされていては、その候補から外されるのでないかと危惧する。
世界遺産に登録されている熊野古道でも「大峯奥駈け道」と古来からの呼称を尊重し、決して訳の分からない命名などはされていない。

大沢峠は、この金剛・葛城行者道(修験者の道)に位置し、ここに役行者が祀られている。そして行者杉と呼ばれる巨大な杉がある。この峠から河内長野の方に下って行くと、石見川、小深の集落に至るが、その道中に6月10日頃たくさんの卯の花が咲く。
卯の花(うのはな)は、幹や根の中が空洞になっているため「空ろ木(うつろぎ)」と呼ばれていたが、それが変化して「空木(うつぎ)」になったと言われ、卯の花とは「空木の花」の意である。あるいは、この花は、旧暦の4月・卯月(うづき)頃から咲き始めるので、卯の花と呼ばれるようである。
卯の花さらにまた、花が咲くと木々に雪が降り積もったように見えるので「雪見草(ゆきみぐさ)」とも言われ、Japanese 
snowflower とも呼ばれる日本原産の花である。
この純白の花は、古来より初夏の訪れを告げ、初夏を代表する花として愛されてきた。そして人々は、田植えの時期、たわわに、しかもふっくらとした蕾を付けた卯の花の風情に、秋の豊かな実りを夢見み描いた。
『万葉集』には、「藤波は 咲きて散りにき 卯の花は 今ぞ盛りとあしひきの・・・」とあるように、藤の花から初夏の卯の花に花が引き継がれていく様子が詠まれている。
そして、この花は、その花が咲く頃に飛来するホトトギスと共に、古来より数多くの和歌に詠まれてきたが、『枕草子』第44段「木の花は」には、次のような記述もある。
「卯の花は、品おとりて、何となけれど、咲くころのをかしう、郭公の蔭に隠るらむ思ふに、いとをかし。(中略)郭公の寄るとさへ思へばにや。なほさらに言ふべきにもあらず」
卯の花は、品格が劣って何ということもないけれど、咲く時期が面白く、郭公(ホトトギス)が花の蔭に隠れているだろうと思うと大変おもしろい。(中略)郭公が寄って来ると思うからであろうか、やはり改めて言う必要がないほど素晴らしい、と。
卯の花
しかし我ら凡人、このように難しい『万葉集』や『枕草子』ではなく、小学校の時に習った歌が懐かしく思い出される。
「卯(う)の花の匂う垣根に 時鳥(ほととぎす)早も来鳴きて 忍音(しのびね)洩らす 夏は来ぬ」
花は枝先に白い星形の小さな円錐状の花房になって咲くが、香りはあまりない。
歌詞にある「匂う」の意は「花の香り」を表しているのではなく、「咲きにおう美しい花」の意だそうである。
歌詞の解釈は、古典よりなお難しいが、この歌詞が、古典にしばしば登場してきた卯の花をもっと巧く表現しているように思える。
ところで、豆腐を作る時にできるオカラを卯の花と言うが、この花が散り積もった風情からそのように美しい名前が付けられたのであろう。
なお、紅ウツギは、唐久谷から神納に至る新道でも、5月の中旬、切通しの側面に咲き、我々の目を楽しませてくれる。                  

西風狂散人(かわちのふうきょうさんじん)