飛天 奥河内の真教寺に舞う!!【奥河内 神仏 見楽記】

南海・三日市町駅から高野街道を北に遡り、川を渡ると、過っての三日市宿の、そして三日市町の官庁街に着く。江戸時代、ここには駅家(うまや)や高札場(こうさつば)あるいは問屋などが置かれ、また明治期に入っても、三日市役場や三日市交番が、あるいは消防団が置かれ賑わっていた。

ここに浄土真宗・本願寺派の真教寺が建つ。
河内長野市内では、数少ない浄土真宗の寺院で市内には、当寺ともう一寺しかない。
当寺の創建は古く、元は阿弥陀寺と称する天台宗の寺院だったようであるが、天正二年(1574)堺・慈光寺の僧・永賢法師(楠永賢)が来住し、阿弥陀如来をご本尊とする浄土真宗の寺院に転宗、この時、寺号も現寺号の真教寺に改名している。
真教寺飛天江戸時代、庶民の教育は、寺子屋で行われていたが、嘉永(カエイ・1848年~53年)年間、当寺の楠宝観(くすのき ほうかん)も、寺子屋を開き、子ども達に読み書きなどを教えていた。そのためか、明治5年、当寺に郷学校出張所が設立されている。なお、この三日市宿の教育者・楠宝観は、現住職のご先祖になる。

この真教寺の本堂に飛天(ひてん)が舞っている。
飛天は、諸仏の周りを飛行遊泳し、仏教寺院を華やかに飾っている。天界に住み、仏を守り礼賛する天人(てんにん)、天女(てんにょ)である。
真教寺飛天この飛天は、“天“と呼ばれているが、仏教に言う如来や菩薩、あるいは明王などに分類されるところの○○天などとは、少し異なる。
一般に、天には、寺院の四方を守る持国天や増長天、あるいは広目天や多聞天、また美人の吉祥天や弁財天など、そして歓喜天などがいるが、この飛天は、厳密な意味では、仏さまではない。
飛天は、浄土の空中を舞いながら天上の蓮の花を撒き、音楽を奏し、香を薫じ浄土を彩り仏を称える天人である。従って、この飛天は仏様ではないから、信仰の対象ではない。そのため拝まれることはない。
飛天は、天界に住む楽団員であり舞踊集団である。優美に天上を舞う飛天は、仏さまを散華(さんげ)供養し、仏の世界を荘厳(しょうごん)する立場である。そのため飛天は、主役の仏に対し常に脇役に過ぎない。仏を称える役しか与えられていない。そして天空を舞っていることから仏像の光背(こうはい)や天蓋(てんがい)、あるいは寺院の側壁などでも舞っている。
飛天は、天人や天女を初め、天使、楽天、天童などとも呼ばれるが、女性で代表されることが多いことから“天女(てんにょ)”と言われる。天衣(てんね)をたなびかせ優雅で優美な舞い姿は、女性でないと絵にならない。だから、“飛天”は、“天女”と同義なのである。

飛天は、元々オリエントの有翼天人(ゆうよく てんにん)像がシルクロード経由で伝わったと言われるが、良く判らない。欧米には、ギリシャのニケや天使・エンジェル、あるいは天馬・ペガサスなど多くの有翼神像が存在する。そして仏教の世界でも、翼を持ち極楽浄土で美声を響かせる人頭鳥身の迦陵頻伽(かりょうびんが)がいる。
真教寺飛天しかし同じ仏教の世界でも、飛天は“翼を持たない“し、我が国では、空を飛ぶには、”翼“は要らなかった。
我が国では、”領巾(ひれ」」“、いわゆる天衣や羽衣、あるいは雲に乗って空を飛んだ。
古く、久米の仙人は“雲”に乗って空を飛んでいたが、なぜか神通力を失って落下しているし、わが孫悟空は“觔斗雲(きんとうん)”に乗って一っ跳びに十万八千里を飛んだ。そしてかぐや姫は、“牛車”に乗って天上界に帰っていった。また三保の松原の羽衣伝説では、“天衣”を隠された天女が描かれている。ここには、決して翼など登場しない。
真教寺飛天
平安中期、末法思想が流行ると共に、阿弥陀如来が迎えに来て衆生(しゅじょう)を極楽浄土へ連れて行ってくれるという“来迎(らいごう)”思想が広まる。そしてその阿弥陀如来は、舞踊りながら奏楽する菩薩や飛天を従えて来ると信じられていた。
この真教寺の本堂に飛天が舞っている。
左の壁面には、笙(しょう)や横笛を吹き、太鼓を打つ4人の天女が、また右の壁面には、竪琴、琵琶、鼓を打つ天女たちが描かれている。いずれも天上から地上に舞い降りてきたように天衣を棚引かせ、色鮮やかな衣装に身を包み優雅に、しかも艶やかに天空を舞っている。
飛天を眺めていると、御堂の中が華やかな空間に見えてくる。そしてこの飛天のうしろから阿弥陀さまが来迎してくるような気がする。来迎し、我々を極楽浄土へ連れて行ってくれるのではなく、今後の人生をより良き方向に導いてくれそうな、そんな気がする。
飛天は仏様ではない。しかしこの舞姿を見ていると、そこには仏の化身かと思われる優美で、しかも不思議な姿が浮かんでいる。(H23・10・23 見楽)

楠菊亭梅光(なんぎくてい ばいこう)