鬼住・延命寺の仏様、背丈は160Cm程度とやや小柄。
その形相、顔も耳もデカいが、手はその顔よりもさらにデカい。
そしてアゴは、エラが張り、色黒。
その髪の毛たるや、天然パーマの螺髪(らほつ)ではなく、縄状に何本も結い、額の上で渦を巻かせて結んでおられる。一見して普通の仏様の形相ではない。
そしてそのデカい手。右手は、正面に向けて立て「人々の畏れを取り除く」という施無畏(せむい)印を、また左手は、下げて正面に向け「人々の願いを叶える」という与願(よがん)印を結んでおられるとのことである。仏様の法力を手や指の形で表したものを印相(いんぞう)というようであるが、よく判らない。
しかし手がデカい分、御利益も多いのであろう。
そのお召し物。仏さんの多くは、片肌を脱いでおられるが、この如来さん、首から両肩まで、衣二枚をきちっと着られ、胸は、肌けておられない。そして襟元から腹部にかけては、半円状に連続した衣を召され、さらに脚部から足元までは、さざ波状の細かい襞(ひだ)の衣が下りてきて、きちんと上品に衣を召されている。
仏様の名は、釈迦如来(しゃかにょらい)と申し上げる。
鎌倉時代に彫られた寄木造りのお像で、昭和28年、国の重要文化財に指定されているなんとも立派な仏様である。
お釈迦様がまだこの世におられた時のこと、インドの釈迦信奉者・優填王(うてんおう)は、お釈迦様の37歳の時の御姿を像に彫らせた。それが中国に伝来し、釈迦如来像の原型となった。
そのためこの像は、「生身の瑞像(しょうじんのずいぞう)」とか、「生身の釈迦」とか称されている。
と言うことは、本当のお釈迦様は、このようなお顔とお姿をされていたということか。しかもこの像は、お釈迦さまが、菩提樹の下で瞑想し、悟りを開かれた時のお顔やお姿を表していると伝えられているが、それならば、お釈迦さまの一番大事な時の御姿を映しているということか。
平安時代中期、東大寺出身の入宋(にっそう)僧・奝然(ちょうねん)(938~1016)は、中国伝来の栴檀(せんだん)瑞像を拝し、大いに感激。そこで985年、宋の仏師・張延皎(ちょうえんこう)、張延襲(ちょうえんしゅう)兄弟にこれを模刻させ、翌年、日本に持ち帰り、京の清凉寺(せいりょうじ)(京都市右京区嵯峨釈迦堂)に安置した。
そのため、この奝然が彫らせた模像の釈迦如来像が「清凉寺(せいりょうじ)式釈迦像」の根本像となった。その後、この根本像から百体近くの像が全国で模刻されたので、叡尊(えいぞん)や忍性(にんしょう)に繋がる奈良の西大寺や鎌倉の極楽寺、あるいは唐招提寺でも、この如来像が祀られている。
延命寺の釈迦如来は、元々、飛鳥時代に建立されたと伝えられる西淋寺(さいりんじ)(羽曳野市)のご本尊であったが、明治5年(1872)延命寺13代目の住職・照遍(しょうへん)和尚が、どうしても欲しい、当寺にぜひ来てほしいと請われ、お越しになったとのことである。(H25・11・19 見楽)
楠菊亭梅光(なんぎくてい ばいこう)