河内長野のクロスワード『烏帽子形城編(解説)』

R4(‘22)年9月9日   横山 豊

【タテの解説】
1:文化財で動かせないモノは、国の史跡(シセキ)と言われ、城跡や寺院の境内などが、これに当たる。
4:腰(コシ)曲輪は、主郭の下段や山腹に細長く設けられた曲輪で、当城の“千人溜まり”がこれに相当する。
6:寺(テラ)町には、多くの寺院を配置し、兵を置き出城の役割を果たさせている。北の大日寺、南の月輪寺付近など。
8:出城(デジロ)は、本城とは別に築かれた城で、石仏城や北の大日寺、南の月輪寺などがこれに想定される。
9:天正12年(1584)、中村一氏(カズウジ)は、烏帽子形城を構築。当城は、“国の史跡”、そして“日本遺産”でもある。    
11:石垣(イシガキ)は、土塁や山の表面に石を積んで覆ったもので、城を全て石垣で築く例は安土城からと考えられている。
12:河内長野の中世(チュウセイ)は、阿観による金剛寺の再興から烏帽子形城の廃城までを言うが、日本の中世は、
平氏政権の成立(1167年)頃から安土桃山時代(戦国末期)まで(諸説あり)と考えられている。
15:堀、土塁、石垣などの土木工事を普請(フシン)と言い、設計は武将や軍師が、そして工事そのものは、武士自らが
工具をもって普請現場で働いた。なお建築工事は作事(さくじ)と言われる。

【ヨコの解説】
1:城の中で主になる郭(曲輪)は、主郭(シュカク)と呼ばれる。
2:竪堀(タテボリ)は、山の斜面に竪に構築された堀で、中世の山城では多くの構築例がある。
3:堀には、竪堀と横堀があり、横(ヨコ)堀は、水平に構築された堀。横堀の発達、多さは烏帽子形城の特徴の一つ。
5:礎石(ソセキ)は、建物の基礎石。「礎石建物、瓦葺屋根、石垣の構築」は、織豊系城郭の三要素。
7:切岸(キリギシ)は、石垣の代用にされた険しい崖。石垣の発達とともに構築されなくなっていった。
9:横堀には、水堀と空(カラ)堀があるが、空堀の防御効果は水堀と同じと考えられ、山城では多く構築されている。
10:土塁(ドルイ)は、土を盛り上げて築いた土手、防御壁で垣の一種。
11:伊智地(イジチ)文太夫は、烏帽子形城のキリシタン領主だったが、禁教令により当城を追放された。
13:城絵図(エズ)は、城内の配置が描かれた絵図面。なお烏帽子形城のものは、残されていない。
14:烏帽子形城の城主・碓井因幡守定仙の女(むすめ)“タシ(ダシ)”は、戦国時代随一の美人で、浮世絵の始祖で“浮世又兵衛”とあだ名される岩佐又兵衛の生母。
16:野面(ノズラ)は、ほとんど加工していない石の表面。野面積みは、そのような石を乱雑に積んだ石垣の積み方の一つ。
17:山の尾根を掘り切って敵の侵入を防止するための堀切(ホリキリ)は、中世の山城で数多く構築されていた。
18:縄を張って堀や土塁、石垣などの位置を決めることを縄張(ナワバリ)と言い、城郭のレイアウトのこと。
19:堀内(ホリナイ)障壁には、畝堀(うねぼり)と障子堀(しょうじぼり)があるが、当城のものは畝堀の一種。この堀内障壁は関東の後北条氏の城で多く用いられている。



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