河内長野で滝行、勝光寺、こんな身近で滝行が!!【河内長野 こんなオモロイとこ!!】

 神仏は清浄を好む。そして我々もまた心身ともに清浄でなくてはならない。
 そのため神仏に詣でる時は、手水で手や口を洗い清め、また神を祀る時は、心身の罪や穢れを洗い清めるために禊や斎戒をしてきた。
 禊(みそぎ)は、体に付いた汚れを洗い流して清浄にすることである。
『記紀』には、黄泉(よみ)の国から逃げ帰ってきたイザナギが「日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)」で海に入り穢れを洗い流すために禊をした、と記している。
 また斎戒(さいかい)は、物忌み(ものいみ)とも言われ、斎は、不浄な思いを持たず、戒は、身の過ちを戒めることで、“精神的な清浄さ”を保つために行われる。
 このように我々は神仏に詣でる時は、心身共に清浄を保ってきたが、これを実現してくれるのが“水”である。

 禊は川に入ったり、滝に打たれたり、あるいは井戸水を被ったりして行うが、その根底には水によって心身の穢れが清められるという考えが日本人の心の中にあるからである。

滝行

 水による“清め”の儀式は、キリスト教徒の世界でも行われ、これは一般的に“洗礼”と呼ばれている。なお洗礼には、頭部に水滴を付ける“滴礼”や水を注ぐ“潅水”、あるいは水に浸す“浸水”がある。
 ところで原罪(げんざい)と言われるものがある。
『旧約聖書』の創世記によると、アダムとイブが神の命令に背いて“禁断の木の実”を食べたが、原罪とは、この“神の命令に背いた罪”である。
 そして我々人間は、この二人の子孫であるから、その罪はそのまま我々に引き継がれ、人は生まれながらにしてその罪を背負っている。あるいは人間は神との契約が守れない罪をもった存在である、、という考えである。
 しかし“洗礼”によって我々はその原罪やそれまでに犯した全ての罪が許されると考えられている。
 このように洋の東西を問わず、水は全ての罪を洗い流し心身ともに清浄にしてくれるものなのであるが、その水による清めの儀式のうちで一番厳しいものが“滝行”である。

滝行
滝行

 滝行は、役行者による修験道に始まっている。
 行者は、人々の健康や雨ごい、そして豊作祈願の祈祷を行ったが、この祈祷を行う前に心身を清めた儀式、それが滝行である。
 滝行(たきぎょう)は、修験道や神道、あるいは密教などでも行われているが、その作法は、それぞれ異なっているようである。

 なお滝行は、日本の修験者が始めた世界中でも日本だけにしか存在しない儀式、心身鍛錬法である。

 滝行をすると煩悩や穢れを洗い流し、心身共に清められるようである。
滝行を済ませた人たちに感想を聞くと、滝に打たれている時は、痛いとか冷たいとかの感覚は全くなく、無我の境地にあるとのことであるが、行を終えると爽快感が湧き、大いなる達成感で満たされるそうである。滝に打たれる、滝行を行うと、このように雑念が消え、悩みを払うなど、精神統一がしやすくなるようである。なお我ら凡人には、滝には夏場のみ打たれたいが、実際は真冬も行われているとのことである。

 河内長野市日野の勝光寺では、今でも滝行が行こなわれている。
 滝の周辺はなぜか神々しく霊気でみなぎっているようにも感じる。そして滝行が始まると行を行っている人を励ますように、ご住職による般若心経の読経が行われる。

 ところで滝行は、日本全国でどれくらい行われているのか知らないが、周辺地域では河内長野の勝光寺でしか行われていないのではないだろうか。

 なお延命寺でもかっては滝行が行われていたようであるが、今では全く行われておらず、わずかにその跡が残こされているにすぎない。

 なおこの滝行は、日本だけにしか存在しない伝統的な心身鍛錬法であるが、モットモット海外にも発信して日本文化 Takigyouの体験希望者が増えると良いのだが・・・。

(筆者注)
(上)勝光寺 太多福滝
(中)勝光寺 太多福滝 滝行中
(下)延命寺 滝行場・跡
                      R2・8・30  横山 豊