河内長野のクロスワード【街道編《複数回答型》(カギ)】

市町村をよく知ってもらうため、かっては“カルタ”や“双六“などが発行されていたが、一人で遊べ、しかも市町村のことをもっと深く知ってもらうには、クロスワードは、最良のアイテムと考えられる。
河内長野の“クロスワード【街道編《複数回答型》】”を解くと、史跡や文化財にあふれた当地をぜひ訪れたいと思われるのではないだろうか。 “河内長野のクロスワード『街道編《複数回答型》』”に挑戦しませんか。
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サア!!  遊び心をクスグル、知的な世界に遊びませんか !!

R4(‘22)・5・18 横山 豊

【タテのカギ】
1:駅周辺の地名は“岩瀬”であるが、高野豆腐の出荷などで〇〇〇と索道で結ばれていたので、当駅は〇〇〇〇〇駅と呼ばれている。
3:高野山への参詣道・〇〇〇街道は、河内長野駅前で一本となり高野山の女人堂まで続いている。
5:河内長野駅そばの諸越橋から石川の東岸を北に進み、瀧谷不動明王寺に至る道。
6:南海高野線の廃線道は、切り花や咳止めの原料となる〇〇〇〇が多く見られることから“〇〇〇〇のみち”と呼ばれ「大阪の道99選」に選ばれている。
7:南海高野線の廃線道は、アニメに登場する景色に似ていることから、サイクリストたちは、ここを“〇〇〇街道”と呼んでいるようである。
8:高野街道の一つで京都の石清水八幡宮から生駒山の西麓を走り、富田林を抜けて河内長野の駅前に通じている。
9:餘部(あまるべ)が転訛した地名で、中世には甲斐庄と呼ばれていた。
12:大坂へ8里、堺へ6里、高野山女人堂へは8里の交通の要衝に立地する宿場。
13:堺・大小路から狭山を経て河内長野市に至る高野街道の一つ。
14:空海が祈祷を行った所から樟が生えてきて大きく育ち、4本の枝に分かれたことから、これが〇〇という地名になったと伝わる。
15:〇〇〇遺産は、地域を活性化させることを目的としている。
19:東西の高野街道は、この神社の北で合流していた。
21:里表示の距離を刻んだ標識で高野山女人堂への道標。

【ヨコのカギ】
1:河内長野の〇〇〇〇〇は、阿観による金剛寺の再興から烏帽子形城の廃城までと考えられているが、日本の〇〇〇〇〇は・・・。
2:紀見峠を越えた高野街道は、橋本市の東家で〇〇道と合流する。
3:江戸時代まで〇〇〇の宮と呼ばれていたが、明治元年、長野神社に改称された。
4:河内長野から河合寺、観心寺を経て奈良の五條に至る道は、〇〇〇〇街道と呼ばれている。
9:幕末には天誅組が休憩、戦後は柳原白蓮がここで詠会を催した三日市宿の旅籠。
10:昭和15年、開校予定の大阪陸軍幼年学校のために開業されたのが〇〇〇駅である。
11:老婆が弘法大師に水を差し上げたことに由来する地名で、一般的には“弘法〇〇〇”と呼ばれる。
13:高野街道の終点は、金剛峯寺の〇〇〇〇堂であるが、ここから奥には江戸時代まで女性は参詣できなかった。
16:江戸時代、旅人の便を計るために1里ごとに築かれた目印。
17:梵字が刻まれた石が配された観心寺の〇〇塚は、我が国唯一のもの。
18:江戸時代、食事が提供される旅籠には、〇〇旅籠と飯盛旅籠があった。
19:大坂の平野から松原を経て河内長野の與津で西高野街道に合流していた高野街道の一つ。
20:令和2年(2020)、光瀧寺や岩湧寺、そして経塚などがその構成文化財として認定された日本遺産の一つ。〇〇〇〇修験。
22:寺ヶ池とその水路は、令和3年(‘21)11月、“世界〇〇〇〇施設遺産”として認定された。
23:河内長野には、日本〇〇〇が三つと世界〇〇〇が一つある。
24:お参りする聖地が1ヶ所で、そこが遠い場合は“〇〇〇〇”、近ければ“参拝”と言う。
25:大阪狭山市の今熊から陶器山、青賀原神社を経て、金剛寺に至る参詣道。
26:数か所の聖地を“礼”をもって“巡”って行くことが目的で、そこが遠ければ“〇〇〇〇〇”、近ければ“巡拝”と言われる。

街道編《複数回答型》


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