朱印の歴史は古く、日本で現存する最古の朱印は、江戸時代に福岡県志賀島で発見された金印「漢委奴國王」印である。
そして朱印は奈良時代まで使われていたが、平安時代になると“花押(かおう)”いわゆる墨のサインが用いられるようになり、朱印は廃れていったようである。
しかしながら、室町後期頃から戦国大名が発行する書類には“印”が捺されるようになった。織田信長は、公式な指令、書状には“朱印”を、そして私信には“黒印”を捺して使い分けしていたようである。そのため朱印は、黒印よりも格式が高く、正式なものと考えられていた。これが“朱印状”で、朱印状は、武将の発行する公文書であった。
そしてまた安土桃山・江戸初期の16世紀から17世紀初め、東南アジアに進出した官許の貿易船は“朱印船”と呼ばれた。
このような朱印、黒印の使い分けが寺社にも伝わり、寺社で授与される印は、黒印よりも朱印の方が格式が高い、“ありがたいモノ”と考えられるようになり、朱印が捺されるようになった。
ところでご朱印は、寺社で授与される“牛(王)寶印(ごおう ほういん)”がその起源と考えられている。
この寶印は、寺社から参拝者に配らる“護符”や
厄除けの“呪符”、あるいは“お守り札”で、これに朱印が捺されていた。
そしてこの寶印は、起請文の、あるいは一揆の連判状の料紙として室町時代ごろから用いられてきたが、“ご朱印”も、この寶印から発展したと考えられている。なお“牛玉”の語源については、牛の胆石“牛黄(ごおう)”を混ぜた朱肉で木版刷りの料紙に朱印を捺したからとする説や牛頭天王(ごずてんのう)からとする説などがある。
河内長野の流谷に八幡神社が鎮座していて、1月初めの縄掛け神事で有名である。この流谷地区では、今でも八幡神社から“牛王寶印”札が授与されている。
“牛王寶印”と書かれた御札は、現在、祈年祭(2月11日開催)の日に授与され、五穀豊穣や諸業繁栄、そして屋敷の魔除けや家内安全、身体健康を祈願するためのもので、それぞれ目的に応じて苗代の水口や家の戸口に祀られる護符である。
ところで“牛王寶印”の神札には“牛王寶印 八幡神社”と墨書され、中央に社紋の“左三ツ巴紋”と“村社八幡神社”と刻まれた角印が捺された長さ8寸、幅5寸5分の神札(しんさつ・おふだ)と、もう1枚は、同じ大きさの白紙の用紙に中央の宝珠の周りを6個の“宝珠”が取り囲み全部で“七つの
寶印”が捺印された神札の2種類あったが、現在ではこの神札は授与されず“牛王寶印”と書かれた札のみになっている。
ちなみに以前はこの神札は、縄掛け神事が行われる1月6日に2枚とも授与されていた。そして昔は、“牛王寶印”札を楊枝の木“ゴンズイ(ウツギ)”に挟んで立てていたが、ゴンズイは割れ易いので、今は牛王杖(ごおうづえ)として“樫の木”を使い、虫除けのために水田の水口に立てて五穀豊穣を祈願している。そしてもう一つの“七つの寶印”札は、畑の豊作や家内の繁栄を祈願するもので、家の玄関に貼っていたようで ある。
ところで、このゴンズイから牛王寶印のことを“ゴン、ゴン”と呼び、寶印が授与される祭事は“牛王(ゴン)祭”と呼ばれ、昔は毎年1月5日に“牛王寶印”札を、そして14日に“七つの寶印”札が授与されていた。
ちなみにゴンズイ(ウツギ)とは、ミツバウツギ科に属する樹木名で、その由来には諸説あり判然としないが、熊野権現の守り札を付ける牛王杖の“ごおう”が訛ったと考えられている。
なお田植えの頃、ウツギには、白い花がタワワニ実り、それが秋の豊作をイメージさせることから神札を立てる木として用いられてきたようである。
(筆者注)
(上)流谷 八幡神社“牛王寶印”札
(中)流谷 八幡神社“七つの寶印 札”
(下)流谷 水田水口の寶印札
R2・7・29 横山 豊