河内長野 天見監視哨 菊水台 ここにも戦争遺跡が!!【河内長野 こんなオモロイとこ!!】

 戦争遺跡といえば、世界遺産にも登録されている広島の原爆ドームがまず思い起こされる。
  このドームは、核兵器の惨禍を今に伝え、また核兵器廃絶のシンボルとして未来に渡り残していかなければならない人類の貴重な遺産である。
また関西では、友ケ島の砲台跡などの要塞が戦争遺跡として知られている。

 戦争遺跡とは、戦争を遂行するための諸施設で、砲台や要塞、あるいは飛行場や地下壕、さらに貯蔵庫などの軍事基地、そして師団部庁舎や兵学校、軍需工場や防空壕などの軍事施設、さらにまた戦災地も含まれ、全国に3万近くあると言われている。

 その戦争遺跡が河内長野にもある。
 70~80年も前、山林が市域を覆い田畑が広がるこんな田舎に、そして戦争の被害もなく、戦争の傷跡すらないと思われがちな河内長野にも戦争遺跡は残されている。
 それが菊水台に設けられた天見の防空監視哨(かんししょう)であり、千代田の大阪陸軍幼年学校である。なおこの幼年学校の跡地は現在、大阪南医療センターになっている。 
 米軍による日本本土への空襲は、昭和17年(1942)4月から始まった。 防空監視哨とは、戦争中、敵機の来襲を察知し、敵軍の飛行行動などを軍や警察に知らせるために全国各地に設けられた軍事施設である。そして報告を受けた軍や警察の監視部隊は、その報告に基づいて空襲警報などを発令していた。

 ところで監視哨を設けた時点で日本は、既に負けていた。勝っている国が本土決戦などありえない。サッカーの試合を見ていても、敵陣がセンターラインを越えて自陣に進撃、当方のゴールにシュートを何度も打ってくる。このような試合は、すでに負けている。本土決戦とは、このような戦況である。本土への空襲が始まった時点ですでに戦争に負けていた。にもかかわらず日本はまだ戦い、戦線を拡大していた。一体何が目的だったのかよく解らない。

 天見の監視哨は、南海電鉄・高野線の天見駅の南東の、旗尾岳から伸びてきた尾根の先端・菊水台(標高376m)の頂上に設けられ、監視哨まで幅1.5mほどの登り道が付けられていたようである。
 大阪監視隊管下の防空監視哨は24ヶ所あったようであるが、遺構は現在3ヶ所しか残っていないとのことである。
 天見の防空監視哨の周辺には、北東の監視哨と南西に紀見峠方面からの敵機の飛来方向と飛行方向や、編隊の状況などを監視する見張り台、そして監視哨の西に通信・休憩室1棟が建っていた。
 壕の大きさは、直径(外形)約3.8m、壁の厚さは35Cmほどで、穴の深さは約1.9mあり、穴の中に降りる梯子が4ヶ所と、その下に高さ45Cmほどの踏み台が4っ置かれていた。
 監視業務は、各班5~6名体制で、敵機の爆音を監視する者が2~3名、電話連絡係りが1名、休憩している者が2名で、円筒形の壕の中に入り、接近する敵機の音を聞き取っていた。そして敵機が飛来すると、通信室から大阪府庁内の監視隊本部に直通電話で報告していた。
 勤務は朝の8時から翌日の朝8時までの24時間勤務。そして監視員は天見地区の者だけでなく、河内長野全域から集められていたようである。
 しかしこの監視哨、よくぞ残っていたものである。
現在、戦争体験が空洞化し、戦争に行ったことも空襲も知らない、いわゆる戦争を知らない人がほとんどである。

 しかし戦争遺跡は、人類の愚かな行為、気違い行為の歴史的証人であり、この遺跡を失えば平和の価値すら解らなくなってしまう可能性がある。
 戦争とは、最終経済と言われ、“破壊と殺戮”しかない人類の最も愚かな行為である。この愚かな行為の記憶として、この遺跡は河内長野だけでなく、人類すべての戦争遺産として後世に残していかなければならない。
 そして幾世代にもわたり戦争の惨禍を教えるための教材として案内板の設置など周辺を整備し、児童や生徒に見学させることも重要な教育と考える。二度とこのような施設が必要とされないために。
 なお天見の防空監視哨は、河内長野市では未だに“戦争遺産”として認定されていないが・・・。

(筆者注) 
(上)天見監視哨・菊水台
(中)監視哨外観
(下)大阪陸軍幼年学校跡の表示
                       R2・6・3   横山 豊