西高野街道は、堺の大小路から高野山女人堂まで58Kmに及ぶ信仰の道である。そしてこの道は平成元年と2年、日本遺産の構成文化財の一つとして認定された。
この道に13本の里程石(りていいし)・(里道標石(りどうひょういし)が建っているが、これは安政4年(1857)、河内国茱萸木(くみのき)村(現・大阪狭山市)の百姓・小左衛門(こざえもん)と五兵衛(ごへえ)の発起により建立されたものである。
里程石は幅、奥行き共24Cm前後、高さ地上約150Cmほどの石柱で、その内でも三日市の「八里」の里程石が一番大きい。
この里程石の四面に刻まれた内容は、基本的にほぼ決まっている。
まず正面は、里程石が建っている所から高野山女人堂までの里数距離、『是ヨリ高野山女人堂江□□里』、
そして右面(和歌山県内では全て左面)には、
建立年月と発起人の名前『安政四丁巳年□月 発起人 茱萸木村 小左衛門/五兵衛』、
また左面には、高野山までの無事を弘法大師にお縋りしたいと『南無大師遍照金剛』、
さらに施主(建立寄進者)の名前『施主 □□□』が刻まれている。
なお施主は、里程石が建っている地元の人たちだけでなく、個人もあれば村中もある。
川柳には次の句が見られる。 初旅の 便りと頼む 道しるべ(誹風柳多留)
河内長野市での里程石は、九里(長野)、八里(三日市宿)、七里(天見)の3本が建てられているが、市境のすぐ側には、十里石(大阪狭山市)と六里石(橋本市)もある。
石見川に架かる新高野橋の東北詰めに八里の里程石が建っていて次のように刻まれている。
『 (正・西面)西 是ヨリ高野山女人堂江 八里
(右・南面)南 南無大師遍照金剛 従是北 施主 三日市宿
施主 堺和泉屋長兵衛
(左・北面)北 安政四丁巳年二月 従是 三日市宿
(裏・東面)発起人 茱萸木村 小左衛門 / 五兵衛 』
ところで方位が刻まれた里程石はこの八里石だけで、他の里程石には全く刻まれていない。
なお里程石には、三日市宿と記されているが、三日市町とは刻まれていない。筆者は、南海電鉄の駅名「三日市町」駅より「三日市宿」駅と称したほうが、当地が過って“宿場”であったことをもっとアピールできるのではないか、そして観光にも寄与するのではないかと考えている。
江戸時代、新高野橋から50mほど川下に橋(旧高野橋か)が架かっていて、ここから石見川を渡っていたが、今でも対岸には当時の石垣と街道の一部を残している。そしてこの八里の道標石も当初は、この橋の北東の角に立っていたと推察される。
高野街道は、令和元年に「中世に出逢えるまち」、さらに2年には「女人高野」として日本遺産の構成文化財の一つに認定された。しかし河内長野では、これらの里程石は市の指定文化財でもないし、日本遺産の構成文化財の一つとして認定されているわけでもない。
ところが橋本市では、これらの里程石は、市の“指定文化財”としてすでに認定されている。国宝や重文だけが文化財ではなく、民衆が生み出したものも貴重な文化財である。しかし河内長野の対応をみていると、これで本当に文化都市と言えるのであろうか、いささか疑問に感じる。
(筆者注)
(上)八里里程石
(中・左)九里里程石、(中・右)七里里程石
(下)一里里程石
R2・7・7 横山 豊